65.ファーストキス
いつからそこに立っていたのだろう。夏菜の肩越しに南の姿を見つけた瞬間、引き合うように南と目が合った。
目に見えない歯車が、噛み合って最悪のタイミングを選んでいることを真剣に疑った。もちろん、その時の俺にそんなことを冷静に考えるような余裕はなかった。南と目が合った瞬間背筋を伝った寒気に、そんな疑問めいた意味合いが込められていた。
まだ、校内に生徒が残っている可能性は十分考えられた。正門を通りがかることは十分考えられた。それでも、ここでこうしているのは、そんなことなんて完全に頭の中から飛んでいたからだ。南と目が合うまでは、夏菜のことしか考えられなかったのに。
交わった視線のやり場に困りながらも、なぜか南から目を逸らすことが出来なかった。この状況に南は気付いているだろうか。そんな考えは、俺からすぐに目を逸らした南に吹き飛ばされた。
南は俯き加減にその場から駆け出すと、声をかける間もないまま、俺たちの横を素通りして校門を抜けて走り去ってしまった。その気配に驚いて目を開けた夏菜と目が合った。
気まずい視線の交錯の中で、俺はとっさに夏菜から目を逸らした。戸惑いがちに夏菜が俺の名前を呟く。夏菜が何も知らず、この状況に気付いてもいないという事実が、俺の罪悪感を募らせた。
夏菜が俺の傍から離れて、校門をくぐって、南が走り去っていった道の先を見つめる。俺はそんな夏菜に声をかけることが出来ず、ただ、夏菜の横顔を見つめた。その時だった。
ふっと、何かが俺の視界に唐突に割り込んできたのは。
それが何かを理解する前に、俺の唇に何かが押し付けられていた。
思考が停止する。状況が理解できない。いや、理解したから、考えられない。
目の前に神木沙里の顔があった。首に巻きつけられた温もりは、神木沙里が俺の首に腕を回した温もり。唇に押し当てられた生々しい感触は、神木沙里が俺に自分の唇を押し当てている、感触。
目を見開いた俺の視界いっぱい、目の前に目を閉じた神木沙里の顔がある。
夢かと疑うほど唐突だった。でも、夢だと疑うには、その温もりと感触はあまりにもリアルだった。
どれぐらい、そのままでいたのだろう。神木沙里が俺の首から手を解いて、唇を離すまで、俺はピクリとも身動きが取れなかった。疑問は疑問になりきらずに、俺の頭の中で溶けていく。ファーストキスを神木沙里に奪われたショックとか、この状況に対する答えだとか、全ては、初めて体験したキスの後味に飲み込まれた。
事を終えると、神木沙里はその場に何も答えを残さずに、何事もなかったように学校の中へ静かに歩いていった。その背中を眺めることは出来ても、引き止めることは出来なかった。そして、一人蚊帳の外でその光景を目の当たりにした夏菜は、呆然と俺を見つめていた。
見開かれた夏菜の瞳に、みるみる戸惑いと感情が取り戻されていく。そして、溢れてきた涙の向こうで、夏菜の瞳は弱弱しく揺れた。
どうしていいか分からなかった。こんな状況で、どうしようもなくても、夏菜に歩み寄らずにはいられなかった。でも、夏菜は俺を拒絶した。
「来ないで!」
悲鳴にも似た叫び声は、かすれてうまく言葉になっていなかった。そして、弾けたようにその場から駆け出す夏菜の泣き顔を見て、俺の体は金縛りにあったように、その場から動かなかった。