64.言葉じゃなくて
膨らんでいく苛立ちに蓋をしようとして、大きく息を吐き出した。でも、苛立ちは募るばかりで、俺の吐き出した深いため息は意味もなくその場の空気を悪くしただけだった。気まずい沈黙の向こうで、夏菜は一向に動かずに自分の足元を見つめている。いい加減、背中が痛かったので、校門の柱から背中を離した。
目算で大また3歩。それが今の俺と夏菜の間に開いた距離。三日前までは手を繋げる距離にいたのに、今はどう頑張ったって、俺の手は夏菜には届かない。どうして、こんなことになってしまったのだろう。
お互い好き同士なはずなのに、何でこんなにすれ違ってしまうのだろう。
きっかけが俺にあることぐらい分かってはいる。だから、理解して謝ろうとしていたのに、今はもうそんな気さえ失せかけている。
他の男子生徒ならまだ我慢もできた。でも、あてつけに金田先輩を持ち出してくるのは話が別だ。この憤りを胸に閉まって、笑ってごめんなんて言えるほど、俺は出来た人間ではなかった。
息苦しい沈黙を破ったのは、俺の方からだった。
「何のつもりだよ」
俺の言葉に顔を上げた夏菜は、硬い表情で俺に目を向けた。不機嫌そうな夏菜の目つきは、まるでそれはこっちの台詞だとでも言いたげだった。わずかに残っていた理性が音を立てて、崩れ去った気がした。
「そこまですることねえだろ……俺が今どんな気持ちか分かんねえのかよ!」
胸の内側で暴れ狂っていた感情を抑えきれずに、表に吐き出した。俺の怒声に、夏菜はビクッと肩を震わしてから、すぐに、不安そうな顔になって俺を見つめた。戸惑ったように泳ぐ夏菜の目に、少しの罪悪感が胸をよぎる。でも、嫉妬と不満に後押しされた感情にブレーキをかけることは出来なかった。
「確かに悪いのは俺だよ! 無視されたって仕方ねえよ! あてつけられたって仕方ねえよ! でも、そこまですることねえだろ! なんであんな奴と一緒に――」
感情に後押しされてあふれ出してくる言葉は意図して止めたわけじゃなかった。怒りに任せて、持っていた鞄を地面に叩きつけて、顔を上げた時、予期せず夏菜が目の前に立っていて、俺は言葉を止めることしか出来なかった。
鞄がコンクリートの床に叩きつけられた鈍い音が間延びして、俺の耳の奥を通り過ぎた。唐突に嵐の目の中に飛び込まれたその感覚を、時間が止まったなんて言い表すのは少しオーバーだろうか。俺の傍に立って、夏菜は俺の制服の腕の袖を引っ張っていた。自分から行動を起こしながら、夏菜は不安そうな顔のまま、俺を傍で見つめていた。
「え……な、なに……?」
自分でも上ずった情けない声が出ていることが分かる。制服の袖をつままれているだけなのに、体の熱が夏菜がかすかに触れている指先に集中している。自分でもブレーキのかけられなかった感情を、それだけでアッサリと飲み込まれた。夏菜に触れられた感触は、不安さえ思わせるほど繊細だった。
「純。何か誤解してるよ……」
「――え?」
「あてつけって、私にそんなつもり全然ないよ」
夏菜の言葉に、もう一度俺は間抜けな声を漏らした。夏菜の言葉と、近くで漏れる夏菜の息遣いに、俺は戸惑うことしか出来ずに、それでもたどたどしく言葉を紡ぎだす。
「えっと……でも……メール……」
「メール?」
「いや、部活の練習終わるまでここで待ってるってメール……送っただろ? それで、俺にあてつけるためにわざわざ金田先輩と一緒に出てきて――」
俺の言葉を聞いて、夏菜は俺の袖から手を離してから、おもむろに左手に提げていた鞄を開けて、中を探り出した。その様子をきょとんとして眺めている俺の横で、夏菜は鞄の中からケータイを取り出した。
夏菜のケータイについた複数の小さなキャラクターのストラップが、ジャラジャラと夏菜の手からこぼれて、宙にぶら下がった。夏菜は気にせずにケータイを開いて「あ」と声を漏らした。
「新着メール……ほんとだ。気付かなかった」
気付かなかった。夏菜のその一言はエコーを効かせて俺の脳内を反響した。
「部活の間はケータイずっと鞄の中に閉まってるから……」
「えーと……」
この如何ともし難い空気の中で、俺はぽりぽりと頭を掻くことしか出来なかった。
「……も、もしかして、勘違いしてました?」
むすっとした顔で俺を一睨みして、夏菜はケータイを制服のポケットに入れて、鞄を持ち直した。再び訪れるこう着状態。もう一度訪れた沈黙は、執拗に俺を嬲り者にした。
「ご、ごめん、夏菜……あの……」
こんな状況でも、今日夏菜が初めて口を利いてくれたことに勇気付けられていた。傍に立っている夏菜は、もう目を合わせてくれなかった。でも、俺の左腕には夏菜のささやかな温もりがまだ残っていた。そこに自分の手を被せてみて、俺は自分の正直な気持ちに触れた。
「分かったんだ。なんで夏菜があんなに怒ってたのか……夏菜に無視されて、やっと気付いた。夏菜が教室で他の男子としゃべってる。そんな些細なことが辛かったりして、きっと俺が些細だと思って取ってた行動に、夏菜もこんな辛い思いしてたんだろうなって、思った。そんなことに気付きもしないで「好きだ」なんて言っても、駄目だよな。夏菜が怒るのも当然だと思う。でも、さ」
相変わらず、夏菜は足元に目を落としたままだった。一方通行に終わってしまいそうな不安が頭をよぎる。この言葉も言い訳の羅列に過ぎないと思われても、仕方ない。でも、あの時言った言葉が嘘だなんて、思われたままなのは嫌だった。
「言わせてくれよ。俺が好きなのは……夏菜だから。夏菜だけだから」
すっと通り抜けた風は、俺の熱を帯びた顔を優しく撫でて通り過ぎた。気持ちを表に出すことは、なんでこんなにも心臓に悪いのだろう。多分、もっと上手に言葉でラッピングできたなら、受け取る側も喜んでくれるのだろう。でも、俺に出来るのはやっぱり「好きだ」ということだけだった。
ラッピングなしの贈り物への反応はやっぱり芳しくはなかった。夏菜は俯いたまま何も言わず、俺も何も言えずに、お互いそのままで時間だけが過ぎ去った。そして、やがて俺の顔から熱が冷め始めた頃に、夏菜は静かに呟いた。
「もう、信じられないよ……」
「え……」
「純の言うことなんか、もう信じられない」
かみ締めるように漏れた夏菜の声は、ゆっくりと俺の中に浸透していった。言葉は理解できるのに、感覚がついてこない。俺は唾を飲み込んで、夏菜の言葉を馬鹿みたいに肯定することしか出来なかった。
「そっ、か……」
「だから、信じさせて」
今まで俯いていた夏菜が、顔を上げて言葉を発した。唐突な夏菜の言葉とまなざしは、ただ俺をうろたえさせるだけだった。
「信じて欲しかったら、言葉より直接、気持ち伝えて……」
「え……?」
照れくさそうにまた俯く夏菜に戸惑いながら、でも、その言葉の意味はいくら鈍感な俺でも理解できた。そして、その兆しを感じ取った俺の心臓が徐々に徐々に早鐘を打ち始める。
そっと夏菜の両肩に手を置くと、頼りない感触と同時に、温もりが俺の手のひらに広がった。その温もりの愛おしさに、俺はそれ以上踏み込むことに躊躇した。そんな俺に気付いて、夏菜が恐る恐る顔を上げた。
目が合うと夏菜は照れくさそうに俺に微笑んでから、すぐに俯いた。それだけで、もう気持ちが通じ合っているような気がした。
体中につながった神経が、とろけてしまいそうだった。夏菜の温もり。夏菜の匂い。寄り添うほど傍で感じる夏菜は、俺の心を捉えて離さない。もう一歩踏み出すだけで、今よりずっと、気持ちが通じ合えるような気がした。
震える手にぎゅっと力を込めると、夏菜の細い肩がびくっと震えた。応えるようにかすかに吐息を漏らした夏菜が俺に預けるようにそっと顔を上げた。
目をつぶった夏菜の無防備な唇に、思わず息を呑む。頭の中が熱くなって、感覚が曖昧になっていく。落ち着きを取り戻すために、何気なく夏菜から視線を逸らした。その時だった。
俺の視界の中に南が入ってきたのは――。