59.言い訳
ズボンのポケットに入れていたケータイのバイブに気付いて、はっとした。どれぐらい立ち尽くしていたのだろう。ポケットからケータイを取り出すと、紗枝さんから着信が来ていた。ケータイのデジタル表示で、時刻がもう九時を回っていたことを知った。やっぱり、南を家まで送って行ったほうがよかったかもしれない。意識せずそんなことを思っている自分に、やりきれない憤りを感じながら、電話に出る。
何の連絡もなく帰りの遅い俺を心配してくれている紗枝さんに、今日は夕飯は遠慮するという旨を伝えて電話を切った。それから画面に浮かんでいる新着メールの文字に気付いた。
新着メール四件。開いてみると、四件とも夏菜からだった。ほぼ三十分おきに送られてきていたメール全てを開いて、俺の背中に冷たい汗が伝った。
時間経過とともに、分かりやすくテンションの下がっていくメールの内容。最後のメールに至っては、一言だけ「もういい、純の馬鹿」とだけあった。感情表現にびっくりマークを使っていない辺りが、リアルに夏菜の怒りの大きさを表していた。慌てて、夏菜のケータイに電話をかけてみるも、案の定、夏菜は電話に出なかった。
今の今まではまり込んでいた自己嫌悪の底なし沼から超能力を発揮し、抜け出し、俺は一目散に夏菜の家を目指した。
「あれ、純君? 夕飯はいらないんじゃなかったの?」
玄関の前で、大汗をかいて息を切らしている俺を見て、紗枝さんは目を丸くしてそう声を出した。昨日夏菜を探し回って筋肉痛に陥った体をさらに酷使すれば、こうなることは目に見えていたが、緊急事態なので仕方ない。これも、夏菜を選ばず南と一緒に帰った罰なのか。いや、そんなことはどうでもいい。
「か……な……いま……す……か……」
「……とりあえず、上がったら?」
息も絶え絶えに言葉を搾り出す俺に、紗枝さんは何も理由を聞かず、俺を家に上げてくれた。コップ一杯の水を恵んでもらい、一息ついた後に紗枝さんから夏菜の様子を聞き、戦況は更に悪化した。しかし、負け戦だと分かっていても戦地に赴くのが男という生き物だ。そんな感じでこの最悪の状況を少しでも緩和させようと試みるが、笑えない。付き合い始めてまだ一日目、デートもしていないこの時期につまずいてる俺って、どんだけだよ。どんだけー! なんてはっちゃけてみても、笑えない。アホか。
二階の夏菜の部屋へ続く階段は、まるで富士山頂までの道のりより険しく感じた(想像上)。足が重いのは、筋肉痛だけのせいじゃないことは確かだ。普段、ケータイをマナーモードにしているのが、こんな形で裏目に出るとは思わなかった。
夏菜をないがしろにしていた自分に気付いて初めて、自分が後ろめたいことを抱えていることに気付いた。南と一緒に居たことを、夏菜には知られたくなかった。
今朝までの幸せな時間が嘘だったように、夏菜の部屋のドアは固く閉ざされ、それはゲームに出てくるどこぞのラスボスの居城よりもよほど重厚に感じた。魔王に挑む勇者の心境は、実はこんなものではないのか。ごくりと唾を飲み込んで、何度か深呼吸する。うまい言い訳も考えた。後は、魔王に挑むだけだ。
部屋の中から漏れてくるテレビの音に、夏菜が中に居ることを感じた。俺は意を決して、ドアを二回ノックした。
「夏菜? いるか?」
案の定、応答はなかった。しかし、漏れていたテレビの音がプツンと途切れ、中で夏菜がドアの前まで来た気配を感じた。
少し待ってみても、夏菜は何も言ってこなかった。無言でドアの前に立っている夏菜の姿を想像する。今、夏菜はどんな顔をしてそうしているのだろう。そう思うと、居た堪れなくなって、俺は声を出した。
「夏菜。ちょっと、話しがあるから入って――」
いいか、という俺の言葉を遮るように、ドアノブがカチャリと冷たい音を立てた。内鍵が閉まる音に、夏菜の意思がダイレクトに伝わってきた。通訳するなら「顔も見たくない」ということか。ドアの傍から夏菜が離れる気配を感じた。テレビの音が再び漏れてくる。俺は、慌ててドア越しから夏菜に声をかけた。
「なあ、夏菜。メール気付かなかっただけなんだ。無視してたわけじゃないんだよ。だから、開けてくれよ。ちゃんと夏菜の顔見て謝りたいんだ」
俺の言葉に、再びテレビの音が消えて、夏菜がドアのそばに立つ気配を感じた。その気配にホッとした直後、俺の安堵を夏菜の声が一刀両断した。
「あの子、確か前に純が合コンでお持ち帰りした子だよね」
「……え?」
「今日一緒に帰ってたでしょ? 偶然見ちゃったんだ。ねえ、信じられる? 私の彼氏昨日好きだって私に言ったくせに一日経ったら別の女の子と一緒に帰ってるんだよ最低じゃない」
感情のこもっていない夏菜の棒読み口調が、容赦なく俺の急所を的確に刺し貫いた。おまけに、用意していたうまい言い訳も粉々に粉砕された。そこら辺の魔王など比較にならないその強大さに、眩暈を覚えた。なんてアホなことを言っている場合じゃない。眩暈がしたのは本当だが。まさか、南と一緒のところを夏菜に見られているとは思わなかった。でも、時間帯を考えるとありえないことじゃない。なぜ偶然という言葉の先には、悪いことばかりが待ち受けているのだ。
「か、夏菜。あれは違うんだって。えっと、南とはそういうんじゃないんだ。俺が好きなのは、夏菜――」
「最低……」
俺の声を遮って、ドア越しから夏菜の声が漏れた。小さく漏れたその声は悲しそうに震えて、俺の言葉を制止した。
「言い訳に好きなんて言葉持ち出さないでよ……。――最低よ! 純の馬鹿ぁ!」
「ちょ……待てよ。俺は別にそんなつもりで――」
「いいから、帰ってよ! もう純の顔なんて見たくないの!」
「……なんだよ、それ」
夏菜の一方的な言葉に、苛立ちが俺の体を掠めた。解決に向かわないことは分かっていても、すれ違う気持ちを前に、冷静でいられることなんてできなかった。
「ふざけんなよ! 話ぐらい聞けよ!」
怒鳴ってドアを蹴ってみても、返事が返ってくるわけじゃない。再び流れてきたテレビの大音量が、無造作に俺を突き放した。いくら呼んでも、もう夏菜の声は返ってこなかった。