58.鈍感力
信じる信じないの前に、南の言葉をとっさには理解できなかった。まるで実感を伴わず俺の横をすり抜けていった南の言葉は、ただ、俺を戸惑わせるだけだった。
(……純君さ。君の鈍感力って相当なものだよ)
いつか麗美にそんなことを言われたことがあった。今、その言葉が俺の脳裏をよぎっているのは、南が発した言葉のせいに他ならない。
静寂に包まれた景色は、まるで静止画像のように動かなかった。時間が止まってしまったような錯覚の中で、南は俺を見つめたまま目を逸らさなかった。
南のまっすぐな視線が、言葉に実感を取り戻していく。気がついたように鼓動が高鳴って、息が詰まった。金縛りに遭ったように、うまく体が動かなかった。
「本当は、憶えてたんです」
まるで、話の続きを語るように南が声を出した。その声は、俺の金縛りを解いて、それでも動けなかったのは、ただ、どうしていいのか分からなかったからだった。
「合コンの日の夜のこと、本当は憶えてました。でも、私にはうやむやにして、ごまかすことしかできませんでした。その時から、ずっと胸の中で気持ちがつっかえて、苦しかった。会うたびに先輩のこと好きになって、でも、怖くて手が伸ばせませんでした。
相手のこと気遣う振りをして、ただ自分が傷つくのが怖かっただけなんです。だから、今、こうやって先輩に告白してる自分なんて、想像できませんでした。でも、いつだって先輩の言葉は私を勇気付けてくれるから……何より、この気持ちを大切にしたいから……伝えたいから……――好きです。先輩」
初めてだった。誰かに好きだと言われて、こんなに胸が痛くなるのは。そして、気付いた。南にかけた自分の言葉があまりにも無責任なものだったことに。
罪悪感が痛みになってじわじわと俺の胸を締め付けていた。南は今にも泣き出しそうな顔で、静かに俺から目を逸らした。
答えは出ていた。俺も南も分かっていた。ただ、分かっているのにそうしている南の健気さに触れる勇気がなかった。その答えを口にして、南を傷つけてしまうのが辛かった。
お互いが傷つかない恋愛なんてない。いつか麗美がそう言っていた。その時は、その通りだと思った。誰かを想う事には、痛みが伴う。夏菜を好きになって初めて、俺も実感した。人を好きになることはそういうことなのだ。そして、その痛みに耐えられるのは、寄り添う相手が居てくれるからだ。
だから、何も望まずにただ気持ちだけを伝えてくれる南の想いが痛かった。この痛みと何も引き換えにできないことが苦しかった。でも、そうすることで何かを変えようとしている南に、俺にはきちんと向き合う義務があった。
それが、どれだけ痛みを伴うことだとしても。
「ありがとな、南」
うまく言葉にならない気持ちを、必死になって紡ぎだした。俺の声を、南は何も言わずに、俯いて地面を見つめたまま聞いていた。俺の声に反応して、かすかに南の体が震えた。
「好きになってくれて、ありがとう。でも……ごめん。俺、南の気持ちには応えられない」
俺の言葉を聞いて、南は顔を上げて、声を漏らした。
「はい……分かってますから」
南の頬を涙が伝った。一筋だけ零れ落ちたそれを手で拭ってから、南はベンチに置いた鞄を取って、俺にぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございました。先輩のおかげで気持ち、楽になりました」
多分、南は今自分が上手く笑えていると思っているのだろう。笑顔になっていないその顔は、悲しみに歪んで、今にも泣き出してしまいそうだった。俺にできるのは、その嘘に気付かない振りをすることだけだった。
「じゃあ、私帰ります。さよなら、先輩」
早口でそう言葉を出して、南は俺を横切って広場を出て行った。遠ざかっていく南の背中に言葉をかけられず、俺は南が公園を出て行くのを黙って見守った。
今頃分かった南の涙の理由は、痛みだけを俺の中に残していった。やりきれないこの気持ちは、一体どこに持っていけばいいのだろう。
ただ、立ち尽くすことしか、俺には出来なかった。