56.隣
図書室に南が神木沙里を迎えに来た頃には、外の景色は暗く沈み始めていた。随分遅くまで図書室を開放しているのは、神木沙里のためだけらしい。その恩恵に与っている真面目な生徒の中に俺を見つけた時の南の驚きの中に、場違いな人間が何故ここに、という意味合いは含まれていただろうか。とにかく、校門で待っている神木沙里の母親に神木沙里を預けてから、俺は南と一緒に学校を出た。
一緒に肩を並べて歩きながら、俺たちはお互いに相手にかける言葉に困りながらしばらく無言でいた。本当なら、今頃は隣に夏菜がいたはずだった。
少しの後悔は、南の涙には勝てなかった。なんだか、夏菜には少し後ろめたくはあるけど、別に夏菜と一緒に帰る約束をしていたわけじゃないし、と頭の中で自分の納得する理由を作ってから、こうして南と一緒に帰っている。
俺の隣にいるのが夏菜じゃないことに対する少しの罪悪感。やましいことはなくても、すっきりしないこの気持ち。この落ち着かなさを、南にかける言葉を見つけられないことのせいにして、それを払拭するように俺は声を出した。
「なあ、南。南って部活なにしてんだ?」
俺の唐突な言葉に、南は「え」と声を漏らした。身構えていたこととは全く関係のないことを聞かれて、戸惑ってます。リアクションから、南の心理状態は簡単に読み取れた。
「あの……演劇部、です」
「え、演劇?」
今日体操着姿の南を見ているので、無難にスポーツ系の部活に所属していると勝手に思い込んでいただけに、その答えは意外なものだった。その意外、には南と演劇がどうしても結びつかないことも含まれている。少なくとも、南が舞台の上で演劇をしている姿はとても想像できない。
目を丸くする俺と目が合うと、南はおかしそうに声を漏らした。
「意外、ですか」
「あ、ばれた?」
「最初は強引に先輩に誘われて仕方なくって感じだったんですけど」
俺の言葉にくすっと笑った後に、南は俺から目を逸らした。
「なんだか、今は少し好きになってます」
左手に持っていた鞄を南が膝の前で両手に持ち直した。そんな何気ない仕草にドキッとしたのは、この近い距離で取りとめもなく「好き」という言葉を聞いたせいだろう。いつか、酔って南の口から出てきたものとは違う、流れるような自然なその言葉に、なんだか俺の知らない南を見た気がして、急に照れくさくなった。
「いんじゃねえの? よく知らねえけど、演劇の練習って大声出すだろ、多分。南は普段大人しいから、いいストレス解消にもなるわけだ。つーか、何者かになりきって大声張り上げてる南を見てみてえ。今度練習見に行こ」
照れ隠しに早口でそうまくし立てる俺に「止めてください」と苦笑してから、南は気を取り直したように俺から目を逸らした。
少しの沈黙が合図だったように「よかったんですか」と南の声が流れた。
「もしかして、先輩が待ってたのって私じゃないんじゃないですか」
「そうだったけど、気が変わった。って言ったら、迷惑だな」
俺の言葉に、南は少し顔を俯けて、首を横に振った。
「そんなことないです。でも、本当に気にしないでください」
「あのな。女の子泣かしといて、気にするなってのが無理な話なんだ。つーか、ほら。俺って奴は無神経なバカ男だから、無意識に南のこと傷つけてたのかもしんねー。ああ、自己嫌悪。って具合に頭の中でぐるぐる回ってしょうがないっつーか。だから、ほんとになんか気に障ったこと俺が言ったなら、正直に指摘してくれ。ってか、謝罪させて、俺を救ってください。俺が自己嫌悪の底なし沼に頭まで飲み込まれる前に。ちなみに、もう胸の辺りまで飲み込まれて、身動きとれねえから」
そう言って肩をすくめて見せる。しかし、南は俯いたまま何も言葉を返してこなかった。もしかしなくても空気を読み違えたことに気付き、俺は閉口するしかなかった。
もはや、自ら空気を重くしてしまった愚か者に発言権はなかった。黙って歩く南のペースに合わせて、ゆっくり歩きながら、俺は黙り込んでしまった南の横顔をちらちらと盗み見ることしかできなかった。
こんな時にこそ、女の扱いを知らない自分に腹が立つ。恋愛の神なら、この状況をどううまく切り抜けるのだろう、なんて大樹の顔を思い浮かべている俺はアホだ。
なんて、どうでもいいことを考えてしまうほど如何ともし難い状況の中で、唐突に南が足を止めた。二、三歩前に出てから、南が足を止めたことに気付いて振り返る。薄暗い景色の中で、そばに立つ外灯の明かりに照らされた南が、俺と目が合って唐突に微笑んだ。
困ったような、申し訳ないような、それとも諦めたような。南の微笑が意味しているものは、いい意味合いのものではない気がした。気がかりでその意味を汲み取ろうとする俺から目を逸らして、南はそっと声を出した。
「公園……寄っていきませんか?」
南が逸らした視線の先には公園があった。そして、今頃になってそういえば南の家の方向からはこの公園にたどり着く前からとっくに逸れていた事に気付いた。
しようと思えば、そのことを指摘することはできた気がする。でも、それは南の申し出を断ることと同じことで、この状況を作り出したのが他ならない俺自身だったことに今更気付いた俺は、やっぱり馬鹿だった。
もう一度俺に向けられた南の目は、答えを俺に託していた。もう消えてしまった微笑みからは、答えを汲み取ることはできなかった。