55.約束
やることもなく校舎の中をぶらついて、最終的に図書室に立ち寄っていた。普段、滅多に立ち寄ることのないここをチョイスしたのは、それだけ暇だったということだ。
中に入ると何人かの生徒が、席に着き黙って本に目を落としていた。本をめくる紙の刷れる音が時々漏れるだけの静寂の中で、その主たちは、みんな似たような真面目な面構えで、自分の世界にこもっている。そのよそよそしさは、俺がこの場にいるのが場違いであることを、無言で指摘していた。それがただの被害妄想であるにしてもないにしても、それが図書室に滅多に足を運ばない理由でもある。一番の理由はただ単にその必要がないだけだ。生憎、読書の趣味は持ち合わせてはいなかった。
「お前何しに来たんだよ、こら」
図書室の精のテレパシーを訳すなら、そんなところだ。それが俺の被害妄想だというなら、俺が入室したことに気づいて本から目を上げた生徒の、あからさまな迷惑そうな視線は、どう説明する。
「うるせえよ。文句あるなら入り口のドアに用のない者お断りって張り紙でも張ってろ、馬鹿野郎」
図書室の精に俺もまた喧嘩腰でデレパシーを送る。窓の外から夕日が差している暖かそうな席を選び、机の上に無遠慮に体を突っ伏し、寝る体制に入ったわけだ。もし、直接「用がないなら出て行ってください」なんて言われれば、その時は素直に出ていくつもりだが、黙って寝ている分には何の支障もないらしい。五分ほどそうしていても、誰にも文句は言われなかった。
耳の外で、ぺらぺらと耳障りな音が不規則に入り込んでくる。寝るには、さほど気にはならないそんな些細なことにさえ過敏に反応してしまうのは、さっきの南の涙がどうしても頭から離れないからだ。
いくら頭をひねって考えてみても、理由は思い当たらなかった。多分、南を傷つけるようなことを俺が知らず知らずのうちに口走っていたのだろうけど、それがなんなのかどうしても思い当たらない。
ただ、南にあの時の礼を言いたかっただけなのに……。
「だああ! もう!」
頭の中でこんがらがる気持ちを思わず外に吐き出していた。頭をかきむしりながら叫び声を上げた直後、他の生徒の痛い視線に気付く。
「やっぱ、出てけお前」
図書室の精の容赦ないテレパシーに、俺はそそくさと席を立ち、本棚の並ぶ部屋の奥へと逃げ込んだ。背の高い本棚の間に入り、意味もなく収められた分厚い本の表紙をなぞっていく。やっぱり、南の顔が頭から離れない。
答えなんて出ないことは分かっている。それでも、考えてしまう。昨日、南が俺にかけてくれた言葉。俺を励ますためにかけてくれたあの言葉に、何か違和感を感じていた。そして、別れ際に見せたあの寂しげな微笑みも。
その違和感は、答えに繋がっている気がした。思えば、俺は一度も南の本心を聞いていない気がした。一緒にいても、南はどこか俺と距離を取っている。引っ込み思案という言葉で片付けることもできるけど、涙の意味まで、その一言に収めることはできなかった。
女心という未知の生物が、またも俺の中でこんがらがり、進化していく。ただでさえ化け物だったものが怪物に進化を遂げる様を、俺は黙って震えながら見守ることしかできない。
女心って……一体なんですか?
「はあ……」
軽く頭痛を覚えながらため息を吐き、本棚の間を歩いている途中で、俺ははたと足を止めた。全く人の気配を感じていなかっただけに、本棚を抜けた直後に目に入ってきたその背中に、はっとした。そして、ほとんど同時にそれが誰だか分かったのは、きっと、彼女が図書室の隅に一人で立っていたからだ。俺の中で印象付けられている神木沙里は、そういう子だった。
後ろに立ってみても微動にしない彼女の背中は、相変わらず他人を避けているようによそよそしかった。そういえば、南が以前、部活がある時は彼女は図書室で南を待っていると言っていた。そんなことを思い出しながら、彼女に声をかけるかどうか、迷った。その迷いがそのまま、俺と彼女の距離を指し示していた。
彼女は窓の前に立って、じっと一点を見ていた。そこからは夕日の色に染まったグラウンドが見渡せた。運動部の生徒の掛け声がかすかにここまで届いていた。見下ろすと、彼らは随分小さくて、ちっぽけなもののように感じた。彼女も、同じ事を思いながらその景色を見下ろしているのだろうか。
「いい眺めだな」
心にもないことを口に出したのは、少しでも彼女の気をこちらに向けたかったからだ。お世辞にも「いい眺め」なんて言えない景色を見つめている彼女を、こっちに向かせたかった。そうしなければ、会話も成り立たない。
でも、彼女はそこから目を逸らさなかった。こちらには見向きもせずに、ただ窓の外の景色を見つめていた。俺は思い切って彼女の隣に立ってみた。もしかしたら、俺の声自体彼女には届いていないのかもしれない。これだけそばにいながら、そんなことを疑ってしまうほど、彼女は物静かだった。
病的に細い体。透けるようなブラウスの白さに負けない彼女の素肌は、夕日の光を受けて、綺麗に色づけされていた。肩で揃えられた彼女の綺麗な黒髪と、対照的に青白い彼女の横顔は、直視できないほど恵美に似ていた。でも、こんな風に感情のない表情を恵美は俺に見せたことはなかった。
しばらく、俺は声を出さずに彼女の隣で窓の外の風景を眺めながら、時々彼女の横顔を盗み見た。
いつかの雨の日に見た、彼女の感情と言葉。こうして隣に立っていると、あれはただの夢か幻の類のものだったんじゃないかと思えてくる。あれは、俺に対するSOSだったんじゃないかなんて考えは、今の彼女を見ていると、おこがましい以外の何者でもなかった。
彼女はあの日に一体なにを忘れてきたのだろう。それを知ろうとするのは、踏み込みすぎだろうか。
「許さないって、言ったろ」
まるで、独り言を呟くように俺は声を出した。彼女を見ないのは、それが無駄だと分かっているからだ。
「お姉ちゃんのこと忘れるなんて、私が絶対許さないって。あれさ、言われる方より言ってる方がずっとキツイと思うのって、俺の気のせいか?」
静寂の中で、俺の声は虚しく宙を舞うだけだった。それでも、俺は彼女が言葉の通じない人形だとは思わなかった。
「別に偉そうなこと言うつもりも、干渉するつもりもねえ。でも、女の子には笑顔が一番だと思うし。それに」
俺はそう言って、彼女の横顔を見つめた。
「感情なんて失くしてたら、許さないなんて言わねえだろうし」
俺の言葉に、彼女は何も言わず窓の外を眺め続けた。今まで、ずっとそうして生きてきたのが、悲しみを埋めるためだというのなら、俺にそれをどうこう言う権利はなかった。でも、これだけはちゃんと伝えておきたかった。彼女にも、恵美にも。
「約束してるんだ。だから、俺は絶対恵美のこと忘れねえし」
俺の言葉に、彼女はそっと窓に手を当てて、ゆっくり俺に顔を向けた。そうしたことに意味があったのかは分からない。またすぐに窓の外に目を戻した彼女に、もう俺の姿は映っては居なかった。