54.涙の理由
恋愛の神のありがたいお告げを胸に留め、俺は教室を出た。
大樹と別れてから、夏菜を待つため適当に校舎をぶらつく。その間に頭はいい感じに冷えてきて、大樹の言葉をそっくりそのまま信用するのは危険だと思い至った。そもそも、あいつは確かに女の扱いには慣れているのかもしれないが、あれは悪い見本みたいなもんだ。つまり、そんなことに気付かないほど、俺は動揺していたということだ。
しかし、大樹の言葉にも一理あるところはあった。
今までに、夏菜とキスをしようと思えばできた気がする。でも、そうしなかったのは、その勇気がなかったからだ。そこまで求めてしまって夏菜に嫌われてしまうのが怖かった。大樹の言うとおり、夏菜は真面目だから、恋愛に対してもそうだと思う。そういうのは段階を踏んでいってから自然に進展していくものなのだろう。でも、もっと、夏菜に近付いてみたかった。もっと夏菜を知りたい。その気持ちにブレーキをかけているのは、夏菜に嫌われるのが怖いというただの恐怖心だけだった。
両思いになったら、こんな悩みなんてないと思っていた。ただそこには好きな人がいて、それだけで満足できると思っていた。でも、夏菜を好きになる気持ちが加速するにつれて、不安も大きくなっていく。失うことが怖くなる。
大事な人が目の前からいなくなる。そういうのは、もうたくさんだった。
「……って、暗っ」
ネガティブ思考にどっぷりはまっている自分に気付き、一人突っ込みをかます。いや、いや、キスできねえぐらいでなに夏菜がいなくなるとか想像してんだ。どんだけネガティブだよ、俺。たかがキスだろ。
「そうだよ、たかがキス……――されど、キス」
「……先輩?」
「わああ!」
背後から突然響いてきた声に、俺は万歳して悲鳴を上げただけでは飽き足らず、その場でジャンプして、背後を振り返った。見ると、俺のリアクションに逆に驚いた顔をした南が俺の後ろに立っていた。
「お、おお。み、南か、びっくりした……」
「ど、どうも……」
そりゃ、こっちの台詞だよ。って顔して、しかしもちろんそんなことは口には出さず、苦笑いをする南。
えーと、もしかして今の独り言聞いてたよね? でも、君はとてもそんなこと突っ込めるような子じゃないよね、信じるよ? ってな具合に、堂々とすっとぼけて俺は声を出した。
「えっと……なにしてんだ、こんなとこで? 部活は?」
体操着姿の南を見て、部活中であることを察した俺の言葉に、南はたどたどしく言葉を発した。
「あ……その……今部活の休憩時間で。たまたま先輩見かけたから、その――」
そう言って、南は気まずそうに顔を伏せた。そして、昨日のことを思い出して、急に俺も照れくさくなった。あんな格好悪いところを見せ、しかも今思えばあんな恥ずかしいことをよくもまあ、平気な顔して言えたもんだ。まあ、あの時はマジへこんでたから仕方ないけど……でも、うん。誰でもよかったわけじゃない。南だったから、あんなこと言えたんだよな。そんで、あの時南がいてくれなかったら、きっと今頃俺は失恋という名の泥沼に飲み込まれて、人知れず朽ち果てていたことだろう。命の恩人……とまではいかないが、南は俺の恋のキューピットと言っても過言ではない。おお、天使様、おありがとうごぜえますだ。
「あ、あの、先輩……?」
思わず跪いてお祈りのポーズに入った俺を見て、南が戸惑う。無理もない。だって、素でお礼言うの照れくさいじゃない。
「ああ、すまん、引かないでくれ。今のはありがとうってことで」
「え?」
俺の言葉にきょとんとする南。俺はお祈りポーズを止めて、南の前に立って声を出した。
「昨日俺がへこんでる時、南言ってくれたじゃん。頑張れって。なんつーか、すげえ救われたんだ。ありがとな」
「あ……いえ。先輩が元気そうでよかったです。気になってたから」
「心配かけて悪かったな。でも、もう大丈夫だから。南のおかげで自分の気持ちに向き合うこともできたし、好きな人とも気持ち通じ合えたし」
「え……」
俺の言葉に南は目を丸くして声を漏らした。そして、俺は照れ笑いしながらも南に言った。
「俺さ、夏菜と付き合うことになったんだ。あ、夏菜ってのは同じクラスの幼馴染で――ほら、南が酔っ払って大変だったときに、助けてくれたのが夏菜なんだ。憶えてるか?」
「あ……は、はい……」
「まあ、いろいろあったりして、へこんだりもしたけど、今はそんなこと忘れちまうぐらい幸せなんだよな。なんか、つながってるっつーか、分かり合えてるっつーか、うまく言えねえけど……いいよな、こういうの。まあ、ひとえにこれも南のおかげってことで――」
もろお惚気モードに突入した俺は、南の様子がおかしいことに気付き言葉を止めた。なぜか、俺から顔を逸らし、胸に手を当て、肩を小刻みに震わせている南。いぶかしんでその顔を覗いてみると、目が合った南の瞳は涙で霞んでいた。
って、泣いてる! なんで!?
「み、みな――」
うろたえながら南の名前を呟く俺の言葉を遮って、南は涙を拭って顔を上げた。
「す、すいません。なんでもないんで……気にしないでください」
「え、いや、でも……俺、なんか気に障るようなこと言ったか? だったら――」
「ほんとに何でもないですから。じゃあ、休憩終わっちゃうから私これで失礼しますっ」
ぺこりと頭を下げて、南は逃げるように廊下を走っていった。俺はただ呆然とそんな南の後姿を見ていることしかできなかった。