51.両想いのチカラ
さて。昨日の出来事が夢か否かは、夏菜と会ってみれば白黒はっきりすると思い至り、只今、潔く夏菜の家の門扉の前に立っているところだ。……かれこれ、五分。
小鳥のさえずりが心地いい爽やかな朝――とは程遠い雨降りの朝。この曇天は図ったように、そして嫌味なほど俺の心中を表しているようで、腹立たしいったらありゃしない。と、まあ、今はそんなことはどうでもいいのだが……。
ケータイをポケットから取り出して、時間を確認する。そろそろ夏菜が出てくる頃だ、と思っていると、いきなりケータイの着信が鳴った。そして、画面に夏菜の名前が表示され、俺は慌てて通話ボタンを押した。
「も、もしもし」
(もしもし。純?)
「お、おぅ。ど、どした?」
(あ、うん。よかったら、一緒に学校行かないかなって。まだ、家にいる? 私今から出るとこなんだけど)
「あ……おう。ちょうど、今夏菜の家の前にいる」
(ほんと? じゃ、今から出るからちょっと待ってて)
「……」
ケータイをポケットにしまいつつ、自然に頬が緩んでいるのが分かる。いやいやいや、これはもう決まりじゃね? だって、今まで夏菜が朝一緒に学校行こうって電話してきたことなんて――あったよ。何度か。いくら電話しても寝坊ばっかするってんで、呆れてもうしてこなくなったんだったな……やはり、まだ黒の可能性が――。
「おはよ、純」
「おわあ!」
いきなり背後から声をかけられた挙句、肩まで叩かれたものだから、俺はびっくり仰天して、差していた傘を投げ出しながら声を上げた。そして、振り返ると、そこには俺のリアクションに目を丸くして立っている夏菜の姿が。
夏菜と目が合った瞬間、極度の緊張が俺の頭の先から足の指先までを痺れさせた。昨日、好きだと言ったばかりの相手が目の前にいる。その緊張は、今朝見た夢が促進剤となって、俺の体中を駆け巡った。
慌てて夏菜から目を逸らした俺は「お、おはよう」とだけ呟いてから、なにを言っていいのか分からず、俯いた。自分で顔が赤くなっているのが分かる。夏菜の顔をまともに見ることができない。それでも、このまま黙っていては夏菜に不審に思われてしまう。
様々な思いが頭の中でぐるぐると回った結果、結局何もできずただ、うなだれていることしか出来なかった。そして、しばらくそうしていると、不意に体を濡らす雨の冷たさがなくなった。顔を上げると、すぐ目の前に夏菜がいて、差した傘の中に俺を入れてくれていた。
「……なんか、変に緊張するね」
そう言って、はにかむ夏菜をこの場で抱きしめることができればどんなにいいだろう。でも、その衝動を自然に行動に移せるだけの勇気も関係も、まだ俺たちの間には芽生えていない。それが分かっているから、今の俺にははにかんで笑い返すしかなかった。
「……だな」
「でも、おかしな感じ。純と一緒にいて、こんな風に緊張することってなかったから」
「なんだ。夏菜も俺と同じ気持ちなんだな」
俺がそう言うと、夏菜はおかしそうに笑ってから、言った。
「すごいね。両想いのチカラ」
「え?」
「だって、今私たち同じこと考えてたんでしょ。それって、すごいと思わない?」
そんな恥ずかしい言葉を口にできるのも、頷いて返すことができるのも、きっとそれは両想いのチカラなのだろう。俺が頷いてみせると、夏菜は嬉しそうに笑って、その笑顔が俺には何よりも眩しかった。なんて、恥ずかしくてとても言えないけど。
「じ、じゃあ、そろそろいこうぜ。ぐずぐずしてたら、遅刻するし」
照れ隠しにそう言って、俺は足元に転がった傘を拾った。そして、夏菜の傘の中から逃げるように抜け出そうとする俺の制服の袖を引っ張って、夏菜はそっと声を出した。
「一緒に歩くのに、傘が二つもあるのって邪魔だと思うんですけど」
夏菜のその言葉に、俺は身動きが取れず、ただ顔面から火が出そうになるのを必死にこらえることしかできなかった。
しとしとと静かに降り続く雨の音が、俺の中で落ち着きを取り戻した頃に、俺は言葉を返した。自分でも、呆れるぐらいぎこちない声が出ているのが分かる。
「そ、そっ――かな……?」
「う、うん。そうじゃ――ない?」
「いや……そうかも」
「そう?」
「うん。そう」
「じゃあ……」
「お、お言葉に甘えまして――」
拾った傘を畳んで右手に、夏菜の傘を左手に持って、俺たちは一緒に門扉をくぐった。
「あ、純。傘……私が持つ」
「え? いや、いいよ」
「いいの。いいから貸して」
「お、おい……」
強引に俺の手から傘を奪い取った夏菜は、わざわざ左手に傘を持った。俺は道の道路側を歩いて、夏菜は俺の左隣を歩いている。なのに、どうしてわざわざ夏菜は左手で傘を支えているのだろうと不審に思っていると、夏菜は横目で俺を見てから「鈍感」と呟いた。
「え……な、なにが?」
「もう。こういうことだよ」
そう言って、夏菜は空いた右手で、俺の左手をきゅっと握った。
「あ……」
「そんな調子で、ずっと私の気持ちに気付いてくれなかったのよね、純は」
「……わ、わりい」
事実なので返す言葉もない……。
「じゃ、覚悟しといてね」
「え、か、覚悟?」
「そう。昨日言ったでしょ? 私の気持ちは五年越しだよ」
「あ……お、おぅ。任せとけ」
俺の返事に、夏菜はくすっと笑って、俺の手を少しだけ強く握り直した。
「あ、夏菜。俺考えたんだけどさ」
「うん。なに?」
「俺たちが付き合ってること、学校ではしばらく秘密にしといた方がいいと思うんだ。ほら、金田先輩のことがあるし」
「そっか……。金田先輩に悪いもんね」
「まあ、それもあるけど、周りはお前と金田先輩が付き合ってるって思ってたろ? だから、今までしてたことしなくなったら、すぐ別れたって噂になるだろうし、そうなった時に、俺と付き合ってることがばれたら、気まずいだろ? 時期が近いだけに二股かけてたとか根も葉もないこと言われるかもしれないしさ」
「純……そこまで考えてくれてたの」
「まあな。とりあえず、お前のこと一番に考えてるから」
「とりあえず?」
「いや、照れ隠し」
「なら、よろしい」
「まあ、そういうわけだから、相合傘も手をつなぐのも、極力しない方がいいと思うわけだけど……」
「うん。じゃあ、もう少しだけね」
「うん。じゃあ……もう少しだけ」
初めての夏菜との相合傘の味は、俺の憂鬱なんてアッサリ取り払ってくれた。そして、今更だけど、昨日の出来事が夢じゃなかったんだと実感しているこの瞬間に、俺は幸福をかみ締めている。
きっと、幸福なんて人それぞれで、俺の幸福は手に収まるほどのものでしかなかった。そんなささやかな幸福で満足している俺は、慎ましやかな人間だろうか。
少しだけ強く夏菜の手を握ってみると、夏菜もそれに応えるようにきゅっと俺の手を握り返してきた。
今、確かに俺の手の中には、小さな幸福が握られていた。