50.そんな、昨日の幸福が嘘のような憂鬱な朝
続編です。更新は不定期になりますが読んでくだされば幸いです。
「純……。私、純のことが好きなの……だから、ね?」
「か、夏菜……」
記憶の前後がない。なにがどうなっているのだろう。気がついたら自分の部屋にいて、目の前には俺のベッドの上に腰掛けた夏菜が、潤んだ瞳で俺を見つめていた。
「純になら……いいよ」
状況が把握できない俺をよそに、夏菜は俺を見つめたまま、身に着けたブラウスの胸のボタンをおもむろに外しだした。はだけたブラウスの間から、夏菜の胸を覆う薄ピンク色のブラジャーが顔を出した。
泡雪のように、繊細で真っ白な夏菜の素肌が、あられもなく俺を誘っていた。体中の血液が高速で走り出し、心臓が悲鳴を上げる。緊張のあまり、頭皮までがチリチリと反応して、頭の中はとろけそうなほど熱かった。
細くて、小さくて、頼りなくて、それでも途方もなく綺麗な夏菜の体に、俺は見惚れることしかできなかった。
夏菜がベッドから離れて、俺の前に膝を着いた。肩からブラウスがずれ落ちて、夏菜はゆっくりとブラウスを脱ぎ捨てた。そっと、俺の頬に手を添えて、夏菜は何も言わずに俺を見つめた。俺は、恥ずかしさで死にそうになりながら、夏菜から目を逸らした。意図したわけでもないのに、目は夏菜の胸元をなぞっていた。素肌の上をなぞるレースの生地のきめ細やかさに、眩暈を覚える。視線を上げると、艶やかに微笑む夏菜と目が合った。
その瞬間、俺の中でかすかに残っていた理性は音もなく溶けて消えた。夏菜の肩を抱いてベッドの上に押し倒す。かつてないほど心臓が早鐘を打って、欲望の渦が俺の中で渦巻いていた。際限なく膨らみ続けるその中心に立っているのは、胸が焦がれるほどの、夏菜への愛しさだった。
「ほんとに……いいのか」
何とかのどの奥から搾り出した声は、確認の意味ではなくて、合図だった。もう、止まれないことは自分でも分かっていた。そして、夏菜は静かに目を閉じて、俺を受け入れる準備を整える。
夏菜の上に馬乗りになったまま、俺は少しの間夏菜を見つめた。静かな寝顔を思わせる穏やかな夏菜の表情の中で、ほんのりと赤らんでいる頬を愛でるようにそっと触れてみる。思ったより温かい夏菜の体温に戸惑って、俺は夏菜の頬に当てた手を離せなかった。
夏菜から香ってくる心地のいい芳香が、俺の鼻腔をくすぐった。そのあまりにも甘い甘美な誘いは、俺の意識を眩ませて、俺を躊躇させる。
それは、あまりにも綺麗に完成されたケーキに手をつけるのがもったいなくて、ただ眺めることしか出来ないような感覚に似ていた。幼い頃感じた、手をつけた時の少しの罪悪感と、心を満たした満足感が、俺の心をくすぐった。そっと夏菜の頬を撫でると、くすぐったそうに眉をピクンと動かして、静かに夏菜が目を開けた。
熱っぽい夏菜の瞳には、俺の顔しか映っていなかった。夏菜の視線と俺の視線が交わって一つになる。どれぐらい、見つめ合ったのか分からないほど感覚は曖昧なのに、はっきりとした愛しさだけは胸の中で膨らみ続ける。
やがて、夏菜が急かすように両腕を俺の首に回した。くすぐったい感触が俺を後押しする。夏菜が目を閉じる。俺はそっと夏菜の唇に唇を――重ねようとして、動きを止めた。
気のせいか、俺の首に回した夏菜の腕が急に冷たくなったような気がした。おまけに、柔らかかった夏菜の体の感触が妙に硬くなった。その違和感に、俺は閉じていた目をそろりと開けてみた。すると、目の前には、なぜか夏菜の姿はなく――。
「……!」
「うふ。お久しぶりね、ダーリン(ハート)」
――女心がいた。
「出たあああああぁあぁああっぁあぁあ!」
突然の出来事に、俺は混乱を通り越して、パニックになりながらも、防衛本能が先に立ち、すかさずモンスターから離れて、部屋から逃げ出した。しかし、部屋のドアを開けると、当然のようにドアの向こう側には見たことのある草原が広がっていた。その瞬間、俺はここが夢の世界であったことを確信した。
「くっそおおお! 夢オチかよ、ふざけんな、チクショー!」
「おっほほほほほほ! ざーんねんねえ。もう少しでダーリンとチューできたのにぃ!」
例によって、モンスターは俺を追いかけながら、身の毛のよだつ台詞を口にする。俺は、地面に唾を吐いて、全力疾走しながら、後ろを振り返り言ってやった。
「てめえみてえなモンスターが夏菜に化けてんじゃねえ! 俺の女神が汚れんだよ、この醜いゴミクズがっ!」
ってか、今後夢に夏菜が出てくる度にいちいちビクビクしなきゃなんねーのかよ!? なんて、心の中で舌打ちしていると、モンスターが「な……なぁんですってぇええ!」と俺の言葉に激昂して、スピードを上げてきた。
「う、うわ! 化けもんかてめえ!」
って、見りゃ分かるけどな。
「だぁあれがゴミクズだ、ごるぅうらぁあああん!?」
「ひ、ひええ!」
一瞬で10メートル程あった距離を潰して、俺の顔の目の前に自分の顔(女)を寄せて、睨んでくるモンスターに、俺は情けなくも悲鳴を上げてしまった。そして、恐ろしさのあまり顔を逸らせず、器用に後ろを向いたまま走っていると、不意に、地面の感触がなくなった。そして、その違和感に「え?」と声を漏らして下を見てみると、そこに地面はなくて。
「ぎゃあああああああああああ!」
底の見えない深い谷底に真っ逆さまに落っこちた。
「……なんつー夢だよ」
夢から醒め、上半身をベッドから起こした俺は、寝起きから憂鬱に苛まれ、頭を抱えた。夢にしてはあまりにもリアルなそれに、寝汗が冷たくなっていた。俺は、心底深く息を吐き出してから、布団の上にまた倒れこんだ。
すっかり醒めてしまった眠気の後に残された、生々しい感触。最後のオチでケチがついたものの、夢の中で感じた夏菜の温もりと感触はまだ、俺の手の中に残っていた。
……興奮と愛しさも――。
「――って、あれって、女心が化けてただけじゃん……」
たかが、夢。されど、夢。誰も求めていないのに、勝手にバリエーションに富んでいく悪夢は、もしかしたら、何か悪い病気からくるものではないのだろうか。そのうち、夢と現実の区別がつかなくなったり――なんて、本気で疑ってしまうほど、夢の中で感じた感情と感触が鮮明に残っていた。というか――。
「昨日のことは、まさか、夢じゃないよな……?」
(私、純のことが好き。今まで、ずっと伝えたかった)
(――今この瞬間を、私が夢見てたってこと)
昨日の夢のような出来事が、本当に夢でしたじゃ洒落にならない。しかし、俺は果たして本当に夏菜に告白したのだろうか。そして、本当に夏菜は俺を好きだといってくれたのだろうか。いや、夏菜もこの瞬間を夢見てたって、いや……え? 夢? 夢なの? 嘘でしょ?
いやいやいやいや、ないないないない。冷静に、冷静になれ、俺。だって、ほら。あの後のこともちゃんと憶えてるもの。
(――今この瞬間を、私が夢見てたってこと)
そう言った後に、すぐに眠りについた夏菜は、相当疲れが溜まっていたのだろう。自分の気持ちを聞いて欲しいと言っていたのに、そのまま俺に寄り添って眠ってしまった。そんな夏菜に苦笑したことも、紗枝さんが迎えに来てくれるまでの幸福感も、何もかも憶えている。
あの時の夏菜のかわゆい寝顔も……って、は! お、俺は別に夏菜が寝てるうちに如何わしいことをしようなどとは微塵も思ってないぞ! き、キスぐらいいいんじゃね? なんて愚劣なことなどもちろんこれっぽっちも! なに言ってんだよ、あの夢てめえの妄想そのものだろーが、なんてもっともなツッコミは勘弁してください……って、誰に謝ってんだ、俺。
と、とにかく、昨日のことは決して夢なんかじゃねえ! ……はずだ。うん。多分……。
――そんな、昨日の幸福が嘘のような憂鬱な朝……。
「はあ……」