47.言葉にできない気持ち
ベンチから体を起こしてみると、一瞬眩暈に襲われた。一度ぎゅっと目を瞑ってから目を開けてみると、南はまだ俺のそばに立って、俺を傘の中に入れてくれていた。ようやく、欠けていた現実味を取り戻す俺に、南は無言でスカートのポケットからハンカチを取り出して、それを差し出してきた。
南の体温を少しだけ宿したハンカチの温もりに触れた瞬間、なぜか戸惑った。その温もりを手の中でぎゅっと握ると、少しだけ胸の奥が疼いた。徐々に徐々にそれははっきりとした感情に膨らんで、俺はどうしていいか分からずに、南から目を逸らした。
「わりぃ……」
ただ、そう声を漏らすことしかできない俺の傍に、南は何も言わずにいてくれた。胸の奥で疼く痛みが通り過ぎる少しの間だけ、俺たちはそこから動かなかった。
「多分、こういう時に使うんだろうな」
「え?」
「穴があったら入りたい、ってーの。ってか、なんかヘコむ。今の俺って、一体世界で何番目にかっちょ悪い男にランクアップしてんのかな」
「……先輩」
「でも、ありがとな。なんか少し楽になった」
俺の言葉に、南は俺から目を逸らして「いえ」と呟いた。
なんとなく、気詰まりな沈黙が流れた。振り続ける雨の中、校門を出た俺と南は、次に出す言葉を見つけられずに、黙々と歩いた。
ベンチで雨に濡れる俺を目の当たりにしても、南は何も詮索してこなかった。ただ、控えめに微笑んで「一緒に帰りませんか」と言ってくれた南の言葉に、なんだか救われた気がした。
そして、そんな南だからだと思う。こんなことを話せるのは。
「傷ついてもいいって思ってたんだけどな」
「え……」
「気持ちを伝えられれば、それでいいって。でも、結局、気持ちをぶつけることしかできなかった。本当はそんなことが言いたかったわけじゃない。好きだって、その気持ちだけ伝えるつもりだったのに、駄目だった。なんで、好きなのに、傷つけることばっかしてんだろ、俺……」
俺の声が虚しく雨の音に紛れて消えた。傍で南は何も言わずに、俯き加減に歩いている。少しの静寂の後、俺はわざとらしく笑って見せた。
「わりい。んなこと言われてもわけ分かんねえよな」
「……そんなことないです。見てれば分かりますから」
「え?」
「今、先輩がすごく傷ついてるってこと」
そう言って、不意に足を止めた南につられて、俺も足を止めて、南を振り返った。義務的に雨を弾く南の赤い傘が、南の表情を隠していた。いつまでも、南の顔は傘の内側に隠れたままで、俺は無言でそうしている南に、戸惑いながら南を呼んだ。俺の声に、南はそのままで声を出した。
「私には勇気がないから……」
「え……」
「好きな人に気持ちを伝える勇気……私にはないです。分かるから。その人は別の人が好きで、私じゃその人の支えになれないってこと。……難しいですよね。気持ちって、大きければ大きいほど、うまく言葉にかえられない」
「南……?」
「――先輩、いつか私に言ってくれましたよね。今日から俺はお前の味方だって。あの時、すごく嬉しかった。ううん。いつも先輩の言葉は優しくて、一緒にいるとそれだけで私、元気になれるんです。だから……こんな時ぐらい、私が先輩を元気付けてあげたい。私には、そんなことぐらいしかできないから……だから」
そう言って、南は顔を上げた。
「頑張ってください。先輩」
雨の向こう側で、南の微笑む顔はなぜか少し寂し気に見えた。その微笑みはすぐに傘の中に消えて、何も言わずにそこに佇んでいる南にどうしていいか分からずに、俺は、ただ素直な気持ちを言葉にかえた。
「ありがとな……南」
それから、俺たちは無言で雨の中を歩いて、別れた。
別れ際、雨の中を一人で歩いていく南の後姿を、俺は見えなくなるまで見守った。きっと、そうしていたのは、垣間見た南の寂しそうな微笑が、頭から離れなかったからだと思う。
雨の振る音が、いつまでも耳の外で鳴っていた。