46.心に空いた穴
翌日、夏菜は学校を休んだ。今まで一度も学校を休んだことのない夏菜の欠席を麗美は随分心配していた。
教室の中に一つだけぽつんと空いた席は、まるで、俺の気持ちを表しているみたいで、皮肉だった。
罪悪感と後悔しか残らなかった告白。いや、思い返してみれば、俺は夏菜のことを傷つけ通しだった。今まで、こんなことなんてなかったのに。たった好きだというこの気持ちのせいで、自分の行動に歯止めが利かなくなってしまう。
この先も、俺はこの気持ちに振り回されて、夏菜を傷つけるのだろう。だったら、これ以上俺は夏菜の傍にいない方がいい。
全てがもう、どうでもいいような気がした――。
来週末まで、この雨は続くらしい。
夏菜が学校を休み始めてから、三日が経った。心配して見舞いに行った麗美にも顔を見せず、夏菜は部屋から出てこないらしい。
「どうせ、失恋でもしたんでしょ」という紗枝さんの鋭すぎる言葉を思い出す。気の済むまで篭城させとくわ、という紗枝さんの軽い言葉は、おそらく紗枝さんなりの気の遣い方なのだろう。心配だったけど、やっぱり会おうという気にはなれなかった。
世界が変わる瞬間。ぼんやりとその言葉を思い出していた。
誰が言った言葉だったろう。ああ……恵美だ。いつ、どこで? 駄目だ。うまく思い出せない。ただ、恵美との思い出はほとんど病室だったので、多分、そこでだろう。
世界なんて言葉を持ち出だされたのは、その時が初めてだった。その言葉の大きさと、その言葉を発する十一歳の女の子のギャップを、俺は冗談と受け取った。でも、その時の恵美の目は真剣だった。
暗く沈んだ空。しとしと降り続く雨。裏庭のベンチに寝転がりながら、手を伸ばしてみると、思ったよりずっと遠くに空があることに気付いた。雨は規則的に体を濡らして、よそよそしく体を流れていく。湿った匂いと、暗い空。だんだん、曖昧だった記憶が、はっきりとしていく。代わりに、今、自分がなにをしているのかが曖昧になっていた。
――世界が変わる瞬間って誰にでもあるのよ。知らないの?
恵美の言葉に真面目に取り合わなかったせいで、恵美は随分不機嫌だった。その時、恵美の言った世界の意味がそんな広大なものじゃなくて、閉鎖的なものだったことを知って、俺は、ああ、と思った。
その年頃の女の子は、男の子よりもずっと大人びているということだと思う。感傷と現実の間を揺れ動くその頃の女の子という生き物を、俺は未だに計りかねていた。雨はどうして降ると思う? と恵美に聞かれた時、持ち寄りの知識でその仕組みを解説しようとしたら「馬鹿じゃないの。嫌なことを忘れさせてくれるために降ってるのよ。何真面目に語ってんのよ」と理不尽なことを言われたことがあった。
恵美の世界が変わった瞬間は、自分の病名を知った時だったらしい。当たり前だったものが、その日を境に急に自分の手から零れ落ちる瞬間。恵美の指す世界の変革は、あくまで悲しい出来事にしか向いていなかったけど、そのことを指摘する気にはなれなかった。現実的でありながら、感傷的でもあるその話題は詰まるところ俺にも答えを求めてきた。
俺の世界が変わった瞬間は、母さんがいなくなった時。その答えを聞いて、恵美ははあ、とため息を吐いて一言「暗っ」とツッコんできた。別にボケてもないのにツッコまれる筋合いはなかったけど、二人揃ってしんみりするのも気が滅入りそうだったので文句は言わないでおいた。詰まるところ、その年頃の女の子は、男の子よりもずっと大人びている。
その時、普段通り明るく振舞う恵美を見てなんだか悲しかったのは、きっと、喪失の予感だったのだろう。
世界が変わる瞬間が悲しい出来事に限られなかったとしたら「恵美に出会った時」という選択肢もあった。なんだか分からないけど、恵美と会った瞬間から確実に俺の世界は変わっていたから。多分、人は誰かを好きになった瞬間から、世界が変わる。なんて、キザっぽい台詞は恥ずかしくてとても口には出せなかった。
記憶が遠のく――。
夏菜が好きだと気付いた瞬間、俺の世界は変わったのだろうか。なんて大げさな、と笑ってしまいたかったけど、俺の中で今世界は反転している。見上げなければ見えない空が目の前にあって、でも、それは当たり前のことのような気がした。
気力が湧かない。悲しいとか辛いとかじゃなくて、ただ、どうでもよかった。なんだか、体を流れていく雨に溶けて、自分がなくなってしまうような気がした。空に向けて伸ばした手を握ってみると、感覚は随分曖昧だった。
「……?」
しばらく目を閉じて雨に打たれていると、不意に雨が止んだ気がした。でも、耳の外では静かに雨は降り続いていて、その異変に俺はそっと目を開けた。
視界に映ったのは、傘を差して俺のそばに立っている南だった。
「……南」
独り言のようにそう呟く俺を見て、南は静かに声を出した。
「風邪……引きますよ」
――雨が、止んだ気がした。