4.涙と告白
職員室を出た俺は、夏菜に合わせる顔がなかったので、教室には戻らずにまっすぐ屋上へと向かった。ああ、こういうブルーな気分の時は、屋上で一人寂しく風に当てられるに限る。神楽先生め、終いには土下座までした可愛そうな教え子をとことん無視しやがって。スパルタにもほどがあるだろが。生徒が職員室で惜しげもなく土下座すんのがどんだけこっ恥ずかしいことか分からないのか、あんたは。教師の仕事は生徒と正面から向き合うことじゃないのか。それならば、土下座する生徒を無視して弁当を食うあんたは、もはや教師じゃないよな? どうやったら、そんなにふてぶてしく生きられんだよ、ちくしょうめ。
あ、神楽先生め、以降全部声に出てたらしい。廊下をすれ違う生徒みんな、揃いも揃ってあからさまに俺を避けて歩いていく。いや、俺変人じゃありませんよ?
と、そうこうしていると屋上に着いた。開け放しのドアをくぐると、すでに屋上には五、六人先客がいたのだが、そのうちの一人に、夏菜を見つけた途端、俺の足はピタリと止まった。ああ、なるほど。夏菜もブルーなワケだ。それで、屋上で一人寂しく風に当てられに来たわけだ。そんで、そんな簡単なことを読めずのこのこ屋上にやってきた俺はSK(救いようのない・馬鹿)なわけだ。って、誰が馬鹿だ!
さて。苦し紛れの脳内一人ボケ突っ込みも終わったところで、夏菜に気づかれる前に教室に非難しようか。明日になれば、夏菜だって機嫌直すさ、うん。ほとぼり冷めてから謝ろう。
(謝る相手が違うんじゃないのか?)
いや、いや、いや、なんでこのタイミングで出てくんの神楽先生。そんで、なんで足を止める、俺。あの人は俺を見捨てた汚い大人だ。ちょっと美人だからって、調子に乗んなっての。聞く耳持つな。
「か、夏菜……?」
って思ってるそばからなんで夏菜に声かけてんだよ、俺の馬鹿野郎!
ああ、無意識のうちに足がふらふらと屋上の手すりの前に立つ夏菜の下へ。そんで、勢いだけで声をかければ(恐る恐る)、振り返った夏菜の目には涙が溢れていましたとさ。
って、泣いてる!?
俺の声に振り返った夏菜は、目から零れた涙を慌てて制服の袖で拭ってから、俺に繕った笑顔を向けた。昔からこうなんだ、こいつは。隠し事をする時、いつも夏菜は笑ってごまかそうとする。
「ど、どうしたの、純。なんでこんなところにいるの?」
そう言って、夏菜は感情を悟られまいと俺に背中を向けてもう一度涙を拭った。鼻をすすって、あはは、と笑う夏菜。
「分かった。弁当せびりに来たんでしょ。ほんと純って昔からデリカシーってものが」
そう言って笑顔で振り返る夏菜の言葉を遮って、俺は「ごめんな」とまっすぐ夏菜を見つめて謝った。
「え……」
「お前がそこまで本気で皆勤賞狙ってるなんて知らなかった。そういえば、お前小学校も中学校も一回も学校休んだことなかったもんな。体調悪くても無理して出てきたりしてさ」
「純……」
「気づいてやれなくてごめん。俺のせいで台無しにしてごめん。……ほんとうに、すいませんでした」
俺は、思いっきり頭を下げて夏菜に心から謝った。例え相手が親しい人間でも、自分が悪いことをしたら、素直に謝らなければならない。親父の教えだ。
「……もう、いいよ。純」
「……夏菜」
顔を上げると、夏菜は俺を見てくすっと笑った。
「そういえば昔から、私たちケンカしたら、先に謝るのは決まって純だったよね」
「え? あ、ああ。親父がさ、夏菜のこと泣かしたらマジで怒るんだよ。女の子を泣かすような奴は男じゃないってさ。母さんがいない分、その辺の躾は徹底してんだよな。まあ、親父は夏菜のこと本当の娘みたいに思ってるみたいだから」
「私も、おじさんのこと本当のお父さんみたいに思ってるよ。ウチ、お父さんいないけど、おじさんがいつも優しくしてくれたから」
「おいおい、そんなこと言ったら、夏菜の親父さんの立場ないだろ。天国で泣いてるぞ」
俺の言葉に夏菜は困ったように微笑んで、俺から目を逸らした。
「天国、かあ。そこに、私のお父さんも、純のお母さんもいるんだよね?」
「……夏菜?」
「私ね、純のお母さん大好きだったんだ。小さい頃、学校から帰ってもウチのお母さんパートに出てていつも家にいなかったでしょ? だから、いつも純の家に押しかけてさ。私が来ると、おばさんいつも笑顔でおかえりって言ってくれた。おばさんのおかえりが聞きたくて、私いつも純の家に通ってた。だから、おばさんが死んだ時はすごくショックだったな」
五年前、俺たちがまだ十一歳の頃、母さんが病気で死んだ。元々、母さんは体が弱くてよく入退院を繰り返していたが、癌を患った母さんは、三ヶ月の闘病生活の末、俺たちに見守られ、静かに息を引き取った。その時、一番大泣きしていたのは、俺でも親父でもなくて、夏菜だった。
「いつかお見舞いに行った時、おばさん、私に言ってくれた。私がいい子にしてれば、おばさんも安心して病気と闘えるって。だから、約束したの。私、一日も学校休まない。皆勤賞取ってみせるから、おばさんもきっと病気に勝ってねって。おばさん、優しく笑って肯いてくれた」
その時、母さんの体調は日に日に悪くなり、面会もあまりできない日が続いていた。それでも、夏菜は毎日病院に顔を出して、母さんの病室の前に立っていた。
「元気だけが取り柄の私が、おばさんのためにしてあげられることってそれしかなかったの。でも、おばさんは死んじゃって、結局私はおばさんのために何もしてあげられなくて」
夏菜の頼りない細い肩が、かすかに揺れた。声を震わせて言葉を発する夏菜を前にして、俺はどうしてやればいいのか分からず、ただ夏菜を見守った。
「そんなことしても何の意味もないって、分かってるの。でも、あの時、私に笑って約束してくれたおばさんの顔が忘れられないの。馬鹿だよね、私……」
「……いや、それは違うだろ」
「え……」
「意味なくなんてないだろ。母さんを想うお前のその気持ちは絶対空を突き抜けて、天国の母さんに届いてる。それに、お前のその優しさに母さんはきっと救われてたよ。傍で見てた俺には分かるよ。断言する。お前は母さんと一緒に母さんの病気と闘ってくれてた。それが、母さんには何よりも嬉しかったんだ」
「純……」
「お前は絶対馬鹿じゃねえ。そんで、そんなお前が母さんは大好きだった。傍で見てきた俺が保証してやる」
「ふぇ……」
その時、夏菜の顔はくしゃっと崩れて、途端に涙の溜まった目から涙がポロポロと零れ出した。こんな風に、夏菜の泣き顔を見たのはいつ以来だろう。懐かしさと、悲しさと、切なさと、言葉にはできない感情が俺の胸の中に広がった。
両手で顔を覆って、嗚咽を漏らしながら泣く夏菜。その頼りなく震える小さな肩も、抱きしめると折れてしまいそうな細い体も、目の前で泣く夏菜の全てが、なぜか目の前から消えてしまいそうなほど儚く見えて、俺は夏菜に向けてゆっくり手を伸ばした。
抱きしめてやりたい衝動が、俺の心臓の鼓動を一人でにヒートアップさせる。このわけの分からない感情はなんだろう。夏菜を抱き締めれば、自然にその答えが出てくるような気がした――。
「あ、いた、いた、大山!」
「――!」
突如横から割り込んできた声に、夏菜に向けて突き出した俺の手は空中で急遽軌道修正。あたかも、俺はただ夏菜の傍を漂っていた蚊を殺していただけですよ、ってな具合にすっとぼけてパンパン一人で手を叩いて、はい、間抜けの一丁上がりだ。
「……あれ、大山?」
突如俺たちの元に駆け寄ってきた見知らぬ男が、泣いている夏菜を見て目を丸くさせる。一方、夏菜は慌てた様子で涙を手で拭うと「か、金田先輩……」と男を見て言葉を発した後、なぜか気まずそうに俺に目を向けて、すぐに俯いてしまった。
「どうした、大山。なんで泣いてるんだ」
そう言って、俺たちの傍に駆け寄った男は、心配そうに夏菜の顔を覗き込んだ。って、いや、あんたちょっと、近くねえ、顔? 馴れ馴れしい奴だな、この野郎。と思いつつ、とりあえず俺はパンパンと蚊を殺す演技を続行。よし、この調子で大間抜けにまで進化しようか。
しかし、見知らぬ男と夏菜の痛い視線がダブルで突き刺さり、俺は手を叩くのを止めた。
「……なにしてるの、純?」
「いや、特に意味のない行動なのでスルーしてくれ」
お願いだから、事情は聞かないでください。
「えーと……で、こちらの方は、どちら様で?」
話を逸らすために、とりあえず、そう声を出す。そして、そんな俺を、見知らぬ男は険しい顔をして睨んできた。おお、初対面の相手にガンを飛ばすとは、随分勝気な男だな。
「大山を泣かしたのは君か?」
「……はい?」
って、いや、今のは肯定の意味の「はい」じゃないから。確かに、泣かせたのは俺なんだけど。
「ち、違うんです、金田先輩。純は何もしてません」
険悪ムードぷんぷんの中、俺に詰め寄ろうとする金田先輩とやらの制服の袖を掴む夏菜。って、おいおい。どうでもいいけど、お前ら距離近くねえか。って、なんでムカついてんだ、俺?
「そうか? ならいいんだけど……大丈夫か?」
「は、はい。ありがとうございます。もう、大丈夫ですから」
そう言って、金田先輩とやらを見た後に、夏菜はおずおずと俺に目を向け、言葉を発した。
「純。この人、三年生の金田健吾先輩。今……私が付き合ってる人」
「……?」
……突き合ってる? いや、夏菜よ。お前はいつから空手を始めたんだ。確かに今朝の右ストレートは見事なものだったが。
とにかく、状況が理解できず呆気に取られている俺に、金田先輩が「よろしく。誤解して悪かったね」とさっきとは一転、爽やかな笑顔を携え俺に握手を求めてきた。そこで、俺は初めて対面した宇宙人に手を差し出すがごとく、慎重に、恐る恐る手を伸ばした。
「あ、いや……こちらこそ。そうだ、えっと……純です。よろしく。えーと……苗字は……――忘れました。すいません」
ボケでもなんでもなく、マジで自分の名前も浮かんでこないほどテンパっている俺に、金田先輩は「はは、君って面白いな」と笑って俺の肩をぽんと叩いた。そんで、俺と付き合いの長い夏菜は俺が激しく動揺していることが分かるのだろう。金田先輩の横で、なんとも言えない顔をして俺を見ていた。
「あーじゃあお邪魔虫は退散しますので後はどうぞ二人でごゆっくり」
何とか、棒読みでその台詞を口に出し、俺はそそくさと屋上から避難した。