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38.雨の日の思い出

「いらないよ」

 そう言って、彼女はうっとうしそうに俺の傘を押しのけて、また顔を上げた。

 憶えている。そんな彼女にどう接したらいいか分からなかったこと。雨に打たれながら、決して目を閉じずに、暗く沈んだ空を見上げていた彼女の横顔。

 雨は相変わらず降り続いて、彼女の体を容赦なく濡らしていた。

 雨に濡れて透けた薄青色のシルクのパジャマが、彼女の体に張り付いて、成熟しきっていない彼女の体の輪郭を写していた。異性を意識しだしたその頃の俺に、そんな彼女を直視することはできず、俺は下を向いた。濡れた芝生の上を彼女は素足で立っていた。なぜか、それだけで胸がドキドキと鳴っていた。

「雨っていいよね」

 傘を叩く雨の音よりはっきりと聞こえてきた彼女の声に、俺は恐る恐る顔を上げた。彼女の体を見ないように、彼女の顔だけを直視するのは難しかったけど、俺は意地でも彼女の顔だけを視界に留める。そんな俺の努力なんて知りもしないで、気持ちよさそうに彼女は笑っていた。

「こうして雨に打たれてると、嫌なこと全部流れていくような気がする。だから、私雨って好き」

 彼女の言っていることは理解できたけど、そんなことをする気はしれなかった。

「ねえ、あんたも傘なんて差してないで、雨に身を任せなよ。すっごく、気持ちいいんだ。嫌なこともちょっとだけ忘れられるよ」

「……無理だよ」

 俺がそう言うと、横目で俺を見ていた彼女はつまらなそうに俺から目を逸らした。

「つまんないの。もしかして、ないの。嫌な事とか忘れたい事とか。羨ましいね」

「……あるよ」

「だと思った。なんか、陰気な顔してるし」

 どうしてだろう? その時、なんで俺はそんな事を彼女に言ったのだろう。

「死んだ」

 そう言って、俺はじっと彼女の横顔に目を留めた。少しして、彼女は上げていた顔を戻して、体ごと俺に向き直って、俺を見つめた。

「――三週間前。母さんが死んだ」

 少しの間見つめ合ってから、彼女は何も言わずに俺の手から傘を奪った。芝生の上に投げ出された、開いたままの傘を目で追ってから、俺はもう一度彼女に視線をなぞった。彼女は、そんな俺を無視して、気持ちよさそうに空を仰いだ。

「そういう時はね。嫌な事を忘れられるきっかけを作れば少し楽になる。だから、私はいつも雨が降ったらこうしてる」

 雨は思った以上に冷たくて、その時、不意に湧き上がってきた喪失の悲しみは、思った以上に俺の心を飲み込んだ。

 溢れてくる涙を彼女に気付かれないように、俺は彼女の真似をして空を仰いだ。忘れることなんてできなかったけど、彼女の言った通り、ほんの少しだけ気持ちが楽になったような気がした。

 よりどころのない感情が、その時初めて涙になって流れたのは、今まで押し付けられてきたどんな励ましの言葉より、彼女の教えてくれた事が優しかったからだと思う。

「でも私、暗い空は嫌いなんだよね」

 そう言って彼女はイタズラっぽく俺に笑いかけてきた。悲しかったけど、なぜかその時彼女につられて微笑んでいた。

 それが、母さんを亡くしてから初めて泣いて、笑った記憶だった。









 母さんが死んでも、なぜか涙は出てこなかった。多分、知らない人が見たら、俺よりも泣きじゃくる夏菜の方が母さんの子供だと思ったと思う。 死ぬということの意味をうまく理解できなかった。夏菜のように、素直に泣いたらいいんだと分かっていても、なんだかうまくできなかった。

 どうやって泣けばいいんだろう。そんなことを、真面目に考えた。

 母さんが死んでから、毎日病院に足を運んだ。もしかしたら、そうしていれば母さんに会えるかもしれない。そんなことを、真面目に三週間毎日続けた。

 病院の隣にある芝生の公園のベンチに座って、病院の真っ白な外壁を眺めた。雨が降っていて、病院の壁がいつもより遠くに感じた。そんな中、ふらふらと何の前触れもなく俺の視界に入ってきた彼女は、雨が降っているというのに、傘も差していなかった。

 彼女は俺と目が合っても、気にせず俺から目を逸らして一人気ままに空を仰いだ。そんな彼女を俺は少しの間眺めてから、その身なりから、病院の患者であるらしいことを察した。

 雨はなんだか冷たそうで、少しだけ肌寒い風が吹いていた。

 ベンチから離れて、横から彼女の頭の上に傘を持っていくと、彼女はゆっくり俺に視線をなぞってから、俺と目が合うと小さく息をついた。

「いらないよ」









「私、神木恵美かみきめぐみ。あんたは?」

「え……。長谷川。長谷川、純」

 よろしく。そう言って、彼女は物怖じせずに、握手を求めてきた。見ず知らずの女の子と握手をすることに抵抗はあったけど、差し出された手を無視する度胸をその時の俺は持ち合わせていなかった。

「でも、初めましてじゃないよね」

 彼女の手を握ると、彼女はぎゅっと俺の手を握り返しながら、そう言った。

 彼女の言葉に、戸惑いながら言葉を返せない俺を見て、彼女は可笑しそうに笑った。そして「ばいばい」と言って、一人で公園を出て行く彼女の背中を、俺は何もできずに馬鹿みたいに見守った。

 その時は分からなかった。彼女の言ったよろしく、の意味も、初めましてじゃないよね、の意味も。でも、次の日病院を訪れて、受付で「神木恵美」の名前を見ず知らずの看護士に聞いている時に、彼女の言ったよろしくの意味を理解した。そして、ドアの開け放たれた病室の中に彼女を見つけた時、彼女の言った初めましてじゃないよねの意味も理解した。

 真っ白で清潔なその部屋に、ビーズの様々に光るキレイな色彩はすごく映えていた。陰鬱なその部屋の窓際のベッドの上で、午後のどこか気だるい日差しを浴びた彼女の横顔は、果てしなく静かで、病的に青白かった。

 いつか見た光景と、今見ている光景が重なる。騙されたと的外れなことを感じてしまうのは、いつか見た女の子が、昨日みたいに雨の中傘を差さなかったり、ほぼ初対面の異性を相手に物怖じせず握手を求めてきたり、あんな風にイタズラっぽく笑う顔を想像もできなかったからだ。

 テーブルの上で日差しを反射したビーズのきらめきは、やっぱり鮮明で眩しかった。そして、ビーズで何かをせっせと作っていた彼女は、病室の外に立っている俺に気付くと「ほらね」と言って、イタズラっぽく笑った。

「また会える気がしてたんだ」









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