37.揺れる気持ち
「最近やっと君の遅刻癖も治ってきたと思ったのにまた遅刻? 全く、長谷川君ったらしょうがないなぁ」
「……」
「あ、いいよ。何か理由があるんでしょ? じゃなきゃ、私の授業に遅れるなんて命知らずなことするわけないもんね? で? ――な・ん・で、遅れた?」
「……気がついたら昼休みが突然終わってました」
「へーそうなんだー。じゃあ、一生正座でもして目ぇ覚ませ、このクソ馬鹿野郎」
案の定、五時間目の数学の授業を遅れた俺は、前回と全く同じ拷問を受け「いいか、長谷川。仏の顔も一度までだからな」と、全くことわざを無視した神楽先生らしい捨て台詞を吐き捨てられ、ようやく職員室から解放された。もちろん、俺にそれで慈悲深いつもりか、あんた。とツッコむ自殺行為に及ぶ勇気はなかった。
しかし、拷問から解放されたというのに生きた心地がしないのは、昼休みに見たあの映像が俺の脳裏に焼きついて離れないからだろうか。それとも――。
「あ……純」
「……夏菜」
目の前に、夏菜が立っていたからだろうか。
「だいじょぶ?」
「……あ、お、おぅ」
職員室のドアから手を放した途端、その場にへたり込む俺を見て、夏菜が心配交じりの苦笑を向ける。そんな夏菜に、うまく笑い返せている自信はなかった。
「雨で部活中止になったの。だから、純と一緒に帰ろうと思って」
そう言って、夏菜は微笑んだ。
どうやら、夏菜は学校の行き帰りを金田先輩と一緒にはしていないらしい。普段、夏菜から金田先輩との事を一度も聞いたことがない俺にとって、その事実は意外なものだった(なんか、俺からは二人の関係聞きづらいし、夏菜も自分から話そうとはしてこない)。もっとも、金田先輩の家は俺たちの方向とは全く逆方向らしいから、したくてもできないのだろう。ただ、部活の練習で遅くなった時などは、何度か金田先輩に家まで送ってもらったことはあるらしい――などと、夏菜が金田先輩のことを珍しく俺に話しているのは、一緒に帰ろうと言い出してきた夏菜に、俺が「金田先輩はいいのか」と聞いたからだ。そして、その返答は「今日金田先輩は用事があるし、一緒に帰るとなると決まって家まで送ってもらうことになるから、金田先輩に申し訳ない」だった。冒頭の解説は、夏菜が別に聞いてもないのに、なんか一人で焦ってペラペラと喋りだしただけのものだ。そんなことを喋られても俺は「ああ」とか「うん」とかしか返せなかった。
正直、夏菜と一緒に帰るのは気が進まなかった。金田先輩に気を遣っているというのもあるけど、何より、今は夏菜の顔を見るのも精神的に正直キツかった。でも、昨日夏菜に普通に接して欲しいと言われたばかりだし、俺と友達としての付き合いの線引きをするのは夏菜だ。ここで嫌だといえば、また夏菜を傷つけてしまうかもしれない。昨日、夏菜のことを一番に考えると決めたばかりなんだから、そんなことができるわけがなかった。
ただ、夏菜と金田先輩の抱き合っている姿が、さっきから何度も何度も頭に浮かんできて、その度、俺はそれを何度も何度もかき消した。隣でしゃべっている夏菜の声は右から左に流れていた――。
「――ねえ、純。聞いてる?」
一日中降り続いていた大雨も、俺たちが帰る頃にはすっかり小雨になっていた。俺の隣を歩いている夏菜が、そう言って俺の制服の袖を引っ張って、俺ははっと我に返った。隣を向くと、夏菜が難しい顔をして俺を睨んでいた。唐突に夏菜と目が合って、思わず俺は返事を返すのも忘れて、夏菜の顔に見入ってしまった。背伸びをして俺を睨む夏菜の顔は、思っていたよりずっと近くにあった。
「純? やっぱり、なんかさっきからおかしいよ。大丈夫?」
「え……あ――」
訝しそうに引き締めた顔を、途端に緩めて、心配そうな表情を作る夏菜。そんな目の前の夏菜と、脳裏に刻まれた光景が重なる。それを振り払うようにぎゅっと目をつぶって、次に視界に映った夏菜は、ますます心配そうに俺を伺っていた。
「もしかして、どこか具合でも悪いの?」
「いや……なんでもねえ。気にすんな」
「でも――」
「いや、ちょっと、考え事してたんだ。どうやって神楽先生をギャフンと言わせてやろうかとな。あの先生、男はみんな自分の足元にひざまづくと思ってんだ。罰として決まって正座させるのがその証拠だ。今後のために、その性根を叩き直してやらねばなるまい。次の世代の若者のためにも」
「ばーか」
俺の冗談に、夏菜は安心したようにそう言って笑った。
「さっきから、ずーと難しい顔して、そんなこと考えてたの? もう。心配して損した」
そう言って、夏菜はすたすたと先を歩いて行った。俺は小さく息をついて、夏菜の少し後ろを歩いた。
「でも、今日は何で五時間目の授業遅刻したの?」
「え?」
「ほら。だって、最近純、遅刻しなくなってたし。もしかして、何かあった?」
そう言って、夏菜は足を止めて俺を振り返った。そんな夏菜の横を素通りして歩くと後ろで夏菜が俺の名前を呼んだ。俺は足を止めて、仕方なく声を出した。
「ちょっと、お前のこと探しててさ」
「え?」
「南がさ。昼休みに来てたんだ。昨日のことで俺とお前にお詫びしにさ。んで、昼休にお前のこと探してて、んで、うっかり遅刻しちまった」
振り返ると、夏菜はなんとも言えない顔をして俺を見ていた。それは、遅刻の理由に自分が絡んでいることを知ってのただの戸惑いだろうか。
また、あの映像が脳裏をよぎった。でも、いい加減この胸の痛みにも少しは慣れ始めていた。
「南がさ、直接お前にお詫びしたいって言ってたけど、放課後会わなかったか?」
「あ……うん」
「そっか。やっぱ、すれ違いになったか。とりあえず、迷惑かけてすいませんでしたって。南の代わりに伝えとく」
「うん……」
なんとなく気詰まりな沈黙が流れた。分かってる。別に、夏菜は何も悪くない。でも、申し訳なさそうに顔を伏せている夏菜に、俺からかけてやれる言葉はなかった。
「――帰ろうぜ」
俺の言葉に、夏菜は静かに頷いた。
「ねえ、純。また一緒に帰ろうね」
家に着くと、夏菜は門扉をくぐって玄関の前に立ちながら、俺を振り返ってそう言った。俺を見る夏菜の目が、不安そうに見えるのはただの気のせいだろうか。しとしと降り続く雨が見せる、それはただの錯覚だったのかもしれない。
笑顔で「ったりめえだろ」と言うと、夏菜は嬉しそうに微笑んだ。
ばいばい。
そう呟いて、夏菜は玄関のドアを開けた。