24.本心
神様、一言今朝のことを謝らせてください。え? 何のことだって? ほら、今朝夏菜を迎えに行こうとしたところ、夏菜がいきなり玄関から出てきて、その想定外の展開に俺が暴言を吐いたじゃないですか。あなたに対して。ほら。なんか俺に恨みでもあるんスか、畜生って。あれは、ただの八つ当たりでした。すんませんっしたぁ!
――で、神様? 夏菜がたった今目の前に立っている、この今朝の出来事を凌駕する想定外の事態は一体全体どういう了見ですか? こういう嫌がらせがあなたのご趣味だとか? はい。今朝のご無礼は謝ります。謝りますから、その横っ面一発張らせてもらってよろしいでしょうか? あはは。何とか言わんかい、この神公がっ!
さて。俺の現実逃避はこんなもんじゃ終わらねえぞ。ほら、だって、これって夢じゃん? 夢に決まってるよ。だって、現実の夏菜は俺を徹底的にシカトしてたじゃん。ほら、なにをベタなことをなんて野暮なツッコみは止めて、ほっぺをつねってごらん? ほーら、全然痛くも痒くもないでしょう?
「……なにやってるの、純」
無言で両の頬を思いっきりつねり上げる俺を見て、夏菜がリアクションに困っている。そして、痛覚は確かに存在している。……なんてことだ。これは夢じゃないのか。さて、じゃあ、本腰入れて神の野郎を殴りに行くか。うん、ボケられる程度には冷静さは保てているようだ。
「あ……えっと、その、なんと言いますか――ど、どういう心境の変化で?」
頬から手を離し、恐る恐るそう言葉を発すると、夏菜はぷいっと俺から顔を逸らして、下駄箱を出て行ってしまった。や、やべっ! 怒らせた!?
下駄箱で靴に履き替え、俺は慌てて夏菜の後を追――おうとして、ピタリと足を止めた。
……な、なんて謝ったらいいんだろ?
ごめん。ごめんなさい。すまん。すいませんでした。悪かった。悪うございました。いや、いくら言葉を丁寧にしてもなんか、足りない気がする。ここはやはり、土下座でもして――って、そこまでしたら、夏菜引いちゃうよね?
なんてアホな事(深刻だが)考えてる間に、夏菜の姿が正門の向こうに消えて、俺は慌てて夏菜の後を追った。
ちくしょう。夏菜の奴、一体どういうつもりだ。俺のこと許してくれる気になったから、待っててくれたんじゃねえのかよ。だったら、一人でさっさと行っちまうことねえじゃねえか。
「って、うぉあ!」
正門を抜けると、夏菜が正門の影で立ち止まり、俺を待ってたもんだから、俺は仰天して両手を上げつつ驚いた。しかし、昨日みたいに、俺のオーバーアクションを前にしても夏菜は笑ってはくれなかった。俺と目が合うと、夏菜はすぐに俺から目を逸らしてまた歩き出した。
……やっぱ、まだ怒ってるよな?
夏菜の一歩後ろを恐る恐るついて歩きながら、俺は声をかけるタイミングを伺った。しかし、微塵の隙も伺えない夏菜の背中を前に、言葉を呑み込み続けた結果、結局――。
「す、すいませんでした」
脈絡のない謝罪の言葉だけが、口からついて出てきた。
そして、続けて発した「ほんとに、ごめん」という俺の言葉に、ようやく夏菜は足を止めた。
「か、夏菜……?」
立ち止まった夏菜の背中に、恐る恐る声をかける。そして、何も言わず振り返ってはくれないよそよそしい夏菜の背中に、それでも俺は言葉を投げた。
「ほんとに、昨日の事は悪かったと思ってる。その、できれば、昨日言った事全部なしにしてくんねえかな。昨日は、自分でもなんか途中から訳分かんなくなってて、なんか、本心とは真逆なことしか口から出てこなくて――。少なくとも、俺が大事に思ってるのは、弁当なんかじゃなくて、お前だから……」
「……」
「……ごめんな。夏菜」
「――傷……」
不意に夏菜の声が流れて、俺は思わず、え、と呟いた。すると、夏菜はクルっと振り返って、人差し指を自分の唇の端に当てた。
「ここの傷、どうしたの?」
親父に殴られて、俺の唇の端っこは切れて、赤く爛れていた。その傷に、大樹や麗美、もちろん南も気付いて、どうしたのかと聞いてきたが、俺は階段ですっ転んだと適当なことを言っておいたのだが、突然夏菜に話しかけられて動揺した今の俺に、そんな適当な嘘を言うような余裕はなかった。
「あ……こ、これは、親父に殴られて」
「え……どうして?」
「あ、そ、その――お前のこと泣かしたって言ったらな……ってか、殴ってくれって頼んだのはむしろ俺の方だから、別に夏菜が気にするようなことじゃないぞ、うん」
俺の言葉を聞いて、夏菜は「そっか」と呟いて、くすっと笑った。
「おじさん。私の代わりに純のこと殴ってくれたんだね」
そう言って俯いて、夏菜は呟いた。
「……ほんとはね」
「え……」
「ほんとは違うんだ。昨日、純にほんとに言いたかったのは、金田先輩との事じゃなくて、一言だけ、言いたかったの」
そう言って、夏菜は顔を上げた。
「――ありがとう、って」
「え?」
「昨日、純、屋上で私に言ってくれたでしょ? お前は馬鹿じゃない。俺が保証してやるって。……すごく、優しい言葉だった。本当に、嬉しかったの」
「夏菜……」
「結局、本心とは別なこと言っちゃったけど。でも、これで、おあいこだよね」
夏菜の言葉に目を丸くして「え?」と声を漏らす俺を見て、夏菜は「もう、怒ってないってこと」と言って笑った。
――お、おお、神よ。私は今、この瞬間あなた様に感謝したい。想定外の展開の結末に、まさかこんな粋な計らいが用意されていようとは。あなた様をぶん殴ってやろうなどと、私がどうかしておりました。
「……えっと。つまり、許してくれると?」
「うん」
「……マジで?」
「マジで」
そう言って苦笑する夏菜を前に、俺は安堵のため息をついた。
「長い道のりだったぜ……」
「そんな、オーバーな」
「おい。人のことシカトしといてよくそんなこと言えるな、チミ」
「な、なによぉ。元はと言えば純が悪いんでしょ。自業自得だよ」
「――だな」
そう言って、俺たちは目を見合わせて、一緒になって吹き出した。
「おっし。じゃ、お許しも出たところで、帰りますか」
そう言って、俺は夏菜の肩をポンと叩いて、歩き出した。
「あ……そういや、お前俺のこと待ってたりして平気だったのか? 金田先輩は――って、あれ?」
横に視線を移すと、なぜか、夏菜の姿が隣になかった。そして、足を止めて振り返ると、数メートル後ろで、夏菜は俯いて突っ立っていた。
「……夏菜? どした?」
「ねえ、純……。さっき、昨日言ったことは、本心じゃなかったって言ってたよね?」
「え……。お、おぅ」
「だったら、聞いてもいいかな。純の……本心」
「……え?」
顔を上げた夏菜が、少しだけ不安そうな顔をして、俺を見つめた。俺は、そんな夏菜の発した言葉に戸惑いながら、思わず、ゴクリと息を呑んだ。
――おお、神よ。やっぱり、ぶん殴っていいですか?