21.悪夢とハチ公
あーあ。結局悟りを開く前に、午後の授業も終わっちまった。ちくしょう。なにさ、なんなのさ。女心って。夢の中で、女の文字を顔にして、心の文字を体にした化け物に「そんなに知りたいなら教えてあげるわ」って迫られて、延々全力で原っぱ(なぜか)を逃げ回ってた俺には、やっぱり女心を理解するのは不可能なのか……。つーか、マジ怖かったです。いや、マジで。女心の奴めちゃくちゃ足速くて、しかも、どうやって走ってんだお前って、ツッコみたくなるような奇妙な走り方なんだよ、これが。つーか、50メートル六秒フラットの俺の足を持ってしても逃げ切れねえなんて……。最初は余裕こいて「けーけけ。おーにさーん、こーちら」なんつって、パンパン手を叩きながらおちょくってたのに、最後には「すいません、すいません、すいません、(リピート)」って、半泣きで謝るハメに……だって、あいつ、何時間でも同じペースで走ることができる超がつくスタミナ馬鹿なんだもん。
んで、最後には結局捕まっちまって、押し倒されて――。
「ほほほほほ、鬼ごっこはもうおしまい? ぼ・う・や(ハート)」
「うっぎゃあああぁあ! よ、寄るな、化け物、ごぉらあ! 誰か助けてー(半泣き)!!」
「んもう、照れちゃって。かわいい」
「あああぁあぁああぁああぁぁぁああぁああぁあぁあああ!」
――ってとこで、神楽先生に「やかましいわ」っつって叩き起こされました。うん。どうやら、寝言で断末魔の悲鳴を上げてる俺がいい加減うっとうしくて、叩き起こしたそうです。いや、いや、神楽大先生様。あなた様は命の恩人でございます。
つーか、今夜女心の奴がまた俺の夢に出てきそうで怖ぇよ……。でも、女心を知るにはあの先までいかなきゃなんねえんだよな……。
しかし、俺の悪夢を聞いて、麗美は「重症だね……」と呆れ、大樹は「だははは! なんだそりゃ!」と大爆笑して、教室を出て行く始末。どうやら、夢から覚めたばかりで寝ぼけてる俺が全力で女心の恐怖を訴えた様が、かなりイタくて、かなり笑えたらしい。お前ら、それでも友達か、このバケヤロイ!
はあ。んで、まあ、とにかくそんなこんなで、六時間の授業をぶっ通しで眠り倒した罰として、たった一人で教室の掃除を押し付けられたわけで。
もちろん、昨日一睡もしてないんですよ、なんて言い訳しても、クール&ワイルドの返答は「知るか、ボケ」。あんた、昨日俺になにしたのか、もしかして忘れてねえか? って危うく言いそうになったけど、平気な顔して「何のことだ」って開き直られそうだったから、黙っときました。はい。マイネームイズ、コ、シ、ヌ、ケ。
ちっくしょう。おかげで夏菜に声をかけるタイミング逃しちまったし。こうなったら、夏菜が部活終わるまで校門付近で出待ちでもするしかねえか……。夏菜の性格からして、そこまですりゃ口利いてくれるだろ、なんて姑息な策を練ってる俺は、そう。アイアム、コ、シ、ヌ、ケ。
「……はあ」
いい加減、一人でボケるのに飽きた俺は、一人寂しく教室の掃除に取りかかった。
「はあ……やっと終わったぜ、ちくしょう」
ようやく、教室の掃除を終えると、時刻はすでに五時を迎えようとしていた。まさか、一人で教室の掃除をするのがこれほど、地味にしんどいとは思いもしなかった。一人で三十数人分の机を移動させ、ゴミを掃き、また、机を元の位置に戻す。また、これが見かけによらず神経質なモンで、机の列がちょっとでもずれてたら、ミリ単位で整えるこの職人芸。え? なに? 明日になれば、すぐぐっちゃぐちゃだよ、ぐっちゃぐちゃ? テメエは黙ってろ、このボケカスがっ!
いや、しかし、見張りなんていないのだから、何も生真面目に掃除なんてしてやることもなかったんだが、こうも、堂々と放置されちまうとな。逆になんかありそうで怖ぇよ。結局、隅から隅までピカピカにしちまったし。もちろん、机も、窓も雑巾で拭きましたよ。
もしかして、この放置プレイも人間の心理を巧みに利用した神楽先生の高度な戦術なのか? それとも、腰抜けの俺が言いつけサボるわけねえと高を括ってるだけか? うん、後者だな。間違いない。
「ちくしょう。いつか、見返してやる……」
と言いつつ、ゴミ箱から出しておいたゴミ袋を持って教室を出る俺が、そんな日を迎える日は恐らく来ないのだろう。クスン。
さて。教室の鍵を閉めて、職員室に鍵を返しに行った後、俺はゴミ置き場に向かった。ゴミ置き場は自転車置き場の隣、つまり、裏庭の方まで回らないとならない。とりあえず、上履きを履き替えるために、下駄箱に向かったのだが、そこで俺は意外な人物と鉢合わせた。
「あ、あれ?」
「あっ……こ、こんにちは」
下駄箱の前に手持ち無沙汰に立っていた彼女は、俺に気がつくと慌てた様に一歩前に出て、ぺこりと頭を下げてきた。
「……南? こんなとこでなにしてんの?」
そう。今俺の前に立っているのは、あのおさげ髪の君、南結華だった。
「あ、あの。昨日、傘ありがとうございました。本当に助かりました」
そう言って、南は片手に持った傘をおずおずと俺の前に差し出してきた。そして、俺は昨日南に傘を貸してやったことを思い出して「あー」と声を出した。
「そういや、貸してたよな。って、もしかして、今までずっとここで待っててくれてたのか?」
そう言って、俺は南から傘を受け取った。一方、南は俺と目が合うと、焦った様に俺から目を逸らして、しどろもどろに声を出した。
「あ、いえ、その……はい」
「マジでか。わり。ちょっと、教室の掃除しててさ」
そう言って、片手に持ったゴミ袋を軽く上げて見せると、南は「い、いえ」と言って俯いた。
「つーか、傘一つ返すのにこんなとこでずっと待ってるなんて、忠犬ハチ公みたいな奴だな」
「……え?」
俺の言葉に、顔を上げて固まる南。いや、ここは笑うところなのだが……。
「いや、ここは笑うとこなんだけど……」
「ご、ごめんなさい」
はっとした顔をしてそう言いながら、全力で頭を下げてくる南を前に、俺はぽりぽりと頭を掻いた。いや、困った。南ってこんな絡みづらい奴だったっけ?
しかし、頭を上げて俺と目を合わせて、顔を赤くする南を見て、俺は重大なことを思い出してしまった。
(長谷川先輩は、優しい人だと思います。私、先輩のそんなところいいなって思います)
そうだよ、うん。南は昨日、別れ際にそんなことを言って、走り去って行ったんだよ。おぅ。普段の俺なら、動揺しまくってること間違いなしだな、うん。だが、悪ぃ南。今の俺は夏菜のことで頭がいっぱいで、そちらにまで気を回してる余裕はないんだ。いや、なにが悪ぃなのかはよく分からんけどな。
「えっと……ところで、こんなとこにいていいのか? 部活あるんじゃねえの?」
なんとなく気まずい空気を払拭するために声を出す。すると、黙っていた南はおずおずと声を返してきた。
「いえ、今日は部活休みなんで……」
「そ、そっか。あーと……、じゃあ、傘サンキューな。俺ゴミ出し行かなきゃなんねえから。気を付けて帰れよ」
そう言って、南に背を向け、そそくさと歩き出そうとすると、不意に南に呼び止められた。そして、振り返った俺に、南は申し訳なさそうに言葉を発した。
「あの……この後、時間ありますか?」