17.すれ違い
さて、いよいよこの時が来たな。ふっふっふ。こちとらこの時のために、紗枝さんに尻を叩かれてる(文字通り)時からきっちりと対応策を練っていたんだよ。ふははは、俺が何の策も練らずにのこのこと敵陣に乗り込んできたとでも思っていたのか! 愚か者め! 貴様の敗因は我輩を甘く見たことだあぁ!
と、まあ、それにしても夏菜の部屋に上がるのも何気に結構久しぶりだな。そう、確か最後に夏菜の部屋を訪れたのは、一ヶ月ほど前、麗美の誕生日を祝ってここで、大樹と俺、そんで夏菜と麗美の四人の面子で馬鹿騒ぎをして以来だ。もちろん、その後は恋人同士水入らずで誕生日を過ごしたようだが、って、今はそんなことはどうでもいい。
六畳間の小奇麗に整理の行き届いた部屋の中で、俺はぼんやりと突っ立ちながら、夏菜が上がってくるのを待った。クッションや様々な小さなキャラクターの人形があしらわれた部屋の中は、どこを見回しても女の子という言葉が浮かんでくるほど、女の子らしい部屋だった。明るい色彩で彩られたその部屋はまるで、ファンタジー世界の一部のようでもあり、そこに染み付いているかすかな夏菜の香りが、そこを現実世界だと告げている。とにかく、女の子の部屋というのはいつ来ても落ち着かないものだ。
いや、今落ち着かないのは、きっと、それだけのせいじゃないのだけど。
「……純」
「おわあ!」
物音一つ立てずに後ろに立っていた夏菜に不意に背後から声をかけられ、俺は心の準備をする暇もなく、激しく仰天した。
「……だいじょぶ?」
両手を挙げつつ飛び跳ねて驚く俺のオーバーアクションを前に、夏菜は目を丸くして俺に声をかけた。
「お、おお、夏菜。んだよ、物音一つなく近付くなよ。忍者かお前は」
「ごめん。そんなに驚くとは思わなかったから」
そう言って苦笑する夏菜に、俺はなんとも言えず、夏菜から目を逸らした。
「とりあえず、座って」
気を取り直すようにそう声を出す夏菜。しかし、紗枝さんに叩かれたお尻がまだ痛くてとても座ったりできませんから。
「いや……尻が痛くて立ってなきゃやってらんねえから」
俺の言葉に夏菜も笑って「私も」と言葉を発しながら、部屋のドアを閉めた。
部屋のドアが閉まると、いきなり部屋の中が狭くなったような気がした。密閉された空間の中でお互い向き合いながら、俺も夏奈も相手にかける言葉を捜した。話すべきことは決まりきっているのに、その術を見つけられず立ち往生する俺たちは、やっぱり、まだ子供なのだろうか。二人きりになった途端、うまく回らなくなった舌がもどかしくて、それでも、言葉が前に出てこない。それでも、俯いている夏菜を見ていると、やはりここは俺から話を切り出すしかないだろう。
「えっと……さっきは、悪かったな」
俺のその言葉に、夏菜は顔を上げて、え、と呟いた。
「さっき。外で、お前の手振り払っただろ。あれは、別に深い意味なんてないから。ちょっと、驚いただけでさ」
「あ……うん。大丈夫だよ。気にしてない」
「そっか。よかった……。うん」
「うん……」
と、また沈黙が続いてしまいそうな雰囲気を払拭するように、今度は夏菜が声を出した。
「そ、そういえばさ」
「え、な、なに?」
「今朝、大丈夫だった? 純を起こしに行った時、私純のお腹思いっきり殴っちゃったでしょ?」
「……え? あ、ああ。あれぐらいどうってことねえよ。問題ナッシン」
そう言っておどけてみせる俺を見て、夏菜は安心したように微笑んだ。
……真実は、やはり伏せておいた方がいいんだろうな。あれもいわゆる不可抗力というやつか。まあ、夏菜が狙ってあんなことするわけねえし、本人が腹を殴ったと思い込んでんなら、ここはあえて黙っておこう。
「それでね……金田先輩とのことなんだけど」
微笑んだ後に、表情を曇らせながらそう切り出してくる夏菜。夏菜の口から金田先輩の名前を聞いた瞬間、なぜか胸がズキンと痛んだ。同時に、金田先輩と相合傘をして帰っていった時の夏菜の嬉しそうな笑顔が浮かんで、俺はそっと夏菜から目を逸らした。
「金田先輩、私と同じテニス部の先輩なの。それで、何日か前に付き合ってくれないかって告白されて……昨日、オッケーしたの。純には、なんていうか落ち着いてから話すつもりだったんだけど――」
「そっか。うん。いや、別に俺に気ぃ遣う必要なんてねえよ。見た感じ、いい人そうだったし、端から見てもお前ら二人お似合いじゃね?」
「純……」
「麗美が言ってたよ。お前、金田先輩と付き合うことで、俺との関係がぎこちなくなるのが嫌なんだろ? だったら、わざわざお前らに気ぃ遣ってる俺って馬鹿じゃね? つうか、他に好きな奴がいるのに、お前が俺に何を求めてんのかがまず理解できねえし」
――って、おい。なに言ってんだよ、俺。そうじゃねえだろ。二人のことを快く祝福してやるって決めてたじゃねえか。
「大体、こっちだってあれだよ。お前の彼氏に気ぃ遣ってわざわざ購買までパン買いに行ってさ。アンパン一つじゃ腹もたねえっての。これから先だって、もう紗枝さんの手作り弁当食えねえんだろ。いい迷惑だよ」
俺の言葉に、夏菜は唇を噛んで、俯きながら言葉を発した。
「……なにそれ。私と金田先輩が付き合うって分かって、純が心配なのはお母さんの弁当なの?」
違う。
「なんだよ、その言い方。俺がどんだけ紗枝さんの弁当に救われてると思ってんだよ。昼飯だけが学校での俺の唯一の楽しみなんだよ」
そんなことが言いたいんじゃない。
「そうだ。お前、金田先輩に弁当でも作ってやれば? そうすりゃ、俺が紗枝さんの弁当もらっても、気兼ねすることなんてねえし」
でも、今更自分の気持ちに気付いたところでもう遅いんだ。そう思えば思うほど、心にもない言葉しか、口からついて出てこなかった。
「な? そうすりゃ、全て丸く収まるってもんだろ」
「もう、いいよ……」
「え?」
「もういい! 純の馬鹿ぁ!!」
キッと俺を睨んで怒鳴る夏菜の目からは涙が溢れていた。それでも、そんな夏菜の泣き顔を目の当たりにしながら、部屋を飛び出していく夏菜を追い駆けることもできない俺は、救いようのない腰抜けなのだろう。
一人取り残された部屋の中で、俺は夏菜の涙に胸を痛めながら、投げやりに呟いた。
「なんだよ、それ。意味分かんねえよ……」
夏菜がなにを考えているのか、俺には何も分からなかった。