13.神木沙里(かみきさり)
神木沙里。それが、彼女の名前らしい。
彼女がおかしくなったのは、三年前。彼女の姉が病気で亡くなってから、彼女は感情を失くし、おかしな言動をするようになった。まるで、何かにとりつかれてしまったように。
それから、ずっと、南は彼女の世話をしてきたらしい。クラス編成の際、彼女の世話をしたいから同じクラスにしてくれと直訴した結果、それがまかり通ったというのだから、すごい話だ。
「昔は、あんな風じゃなかったんです」
――あの後。神木沙里が言葉を発してから、俺は金縛りにあってでもいるように動けなかった。まるで、彼女の瞳に射すくめられたように。それとも、彼女の口から漏れた言葉に俺は縛られたのだろうか。雨の音が耳の外で妙によそよそしく感じた。彼女は、それからすぐに俺から目を逸らして、何も言わずまた空を仰いだ。まるで、そこにいる誰かをじっと見つめているみたいに。その小さくて頼りない後姿は、そばにいながら俺を拒絶しているように見えた。そして、俺は何も言わず、彼女が雨に濡れないように気遣うことしかできなかった。すでに雨に濡れきっている彼女に対して、そんなことをしてもなんの意味もないことは知っていた。でも、そうせずにはいられなかった。
それから少しして、南が俺たちの元に駆け寄ってきた。
普段、神木沙里の登下校は彼女の母親が送り迎えをしているらしい。朝は時間を決めて、南が門の前で彼女と合流して教室に入る。そして、帰りは部活のある南を、彼女が図書室で待つ、というのが日課らしいのだが、今日に限っては図書室に神木沙里の姿が見当たらなかった。それで、校内を探しているところに、俺たちを見つけた、ということらしい。
その後、保健室で体操着に着替えてから、神木沙里は母親の車に乗せられ学校を出た。そして、傘がなくて困っている南と、傘を二本持っていた俺が、今一緒に帰っていることは、まあ自然の流れだろう。もちろん、南は慎ましい女の子だから(偏見)、なぜに俺が傘を二本も持っているのかという疑問には不思議そうな顔をするだけで、無粋にその理由を聞いてくるような真似はしなかった。
「昔……って言っても、三年ぐらい前ですけど」
一緒に歩きながら、南はそう言って苦笑した。
「そのお姉さんがおかしくなった原因って事は、あの子にとって、それだけお姉さんが大事だったって事なのかな」
「はい。沙里、お姉さんのこと大好きみたいだったから」
「そっか。で、つかぬ事を聞くけど、そのお姉さんの名前ってなんていうんだ?」
「え……名前、ですか?」
どうしてそんなこと聞くんだと言いたげな顔をして俺を見てくる南に、俺は「いや、なんとなく気になって」と言った。
「えっと、確か――恵美さんです」
南の言葉に俺は思わず足を止めた。一瞬だけ地面がなくなってしまったような錯覚に陥った後、南が俺の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「長谷川先輩? どうしました?」
「え? あ……い、いや、別に……――どうってことないぞ、うん」
「傘……落ちてますけど」
「はっ!」
いつの間にか傘を落としていたらしい。っていや、なんて分かりやすい動揺の仕方してんだ俺は! アホか! ――はい、アホです。
「んだと、こらあ!」
「えっ!」
はっ。しまった。動揺してなんか南に怒鳴りつけた感じになっちまった。いや、誰かが俺のことアホ呼ばわりしたんだよ。はい、アホですって。謎の声が。いや、ほんとだよ?
うん、ちょっと動揺しまくってラリってるだけだから気にしないで。
「い、いや、ごめん。今のは南に対してのもんじゃないから」
「は、はあ……。大丈夫ですか?」
ぅおい。それは頭がって事か? いや、この子の目に悪気はない。
とりあえず、本気で心配そうな顔をして俺を見ている南に、俺はごまかし笑いを見せた。
「いや、なんつーの、ただの発作みたいなもんだから、気にすんな。でも、今後俺といる時は、気をつけろよ。この生物は時々わけの分からん言動をするからな」
そう言って、胸を張る俺を見て、南はくすっと笑った。
「長谷川先輩って、面白い人ですね」
「いや、つーか、それだけしか取り柄のない男だ」
「そんなことないです」
「そう、そんなことはないんだ」
って、ん? 今この子おかしなこと言わなかった?
「長谷川先輩は、優しい人だと思います。私、先輩のそんなところいいなって思います」
「……え?」
「……傘、ありがとうございます。明日必ず返しますからっ」
そう言って、顔を朱に染めた南がぺこりと頭を下げて、その場から走り去ってしまった。
あー、いや。ほら。とりあえず、傘。うん。傘を持とうか。