11.お守り
一人で帰りながら、ふと思った。俺と夏菜の家は近所だから、今まで夏菜が部活がない時は、当たり前のように二人一緒に帰っていたし、大樹や麗美と遊びに行ったりもしていた。でも、そんな当たり前のことも、夏菜が金田先輩と付き合う以上、できなくなるのかも、と。
いや、かもじゃなくて、そんなことは当たり前のことだった。そして、それが夏菜が望んだことならば、俺はそれを尊重してやりたい。少し……つーか、かなり寂しいけど、夏菜がそれで笑ってられるなら、それでいんじゃね?
いつまでも、仲のいい幼馴染じゃいられない。ガキの頃とはもう違うんだから。
そう。分かってる。ただ、夏菜の隣にいられないことが、こんなにも辛いなんてことに、今の今まで気付かなかった自分に腹が立つだけだ。
「ただいまー……」
と、言っても家には誰もいないのだが、とりあえず、ただいまを言ってしまうのは意味のない習慣だ。まあ、親父は仕事でいつも帰ってくるのは夜十時を回るし、お帰りを言ってくれる人間なんて家にはいない。毎日のように家に遊びに来ていた小さかった頃の夏菜の気持ちが少しは分かるってもんだ。この歳になって寂しいなんていう趣味はないけどな。
さて。今日はいろいろとありすぎて疲れた。夏菜と金田先輩のこととか、夏菜と金田先輩のこととか、夏菜と金田先輩のこととか、さあ、全てを忘れて眠ってしまおう。レッツ現実逃避だってばよ。
部屋に戻ると、俺は鞄を投げて、すぐさまベッドの上に倒れこんだ。ちらりと見ると、目覚まし時計は、四時四十三分を差していた。
真っ白で清潔なその部屋に、ビーズの様々に光るキレイな色彩はすごく映えていた。陰鬱なその部屋の窓際のベッドの上で、午後のどこか気だるい日差しを浴びた女の子の横顔は、果てしなく静かで、病的に青白かった。
――惹かれた。
なぜか、視界にその女の子が映った瞬間、身動きが取れなくなった。好きとか嫌いとか、そういった感情はまだよく分からなくて。ただ、テーブルの上で日差しを反射した、ビーズのきらめきが、ただただ鮮明に眩しくて、その眩しさに気を留めてそこに立ち止まっていたのに、いつの間にか、彼女から目が離せなくなっていた。
やがて、病室の前にボケッと突っ立っていると、顔見知りの看護士さんに背後から声をかけられた。その看護士さんの無遠慮な大声は、前々から鬱陶しくてしょうがなかった。そして、やっぱり俺は、その看護士さんを好きになれそうにはなかった。
どうしたの、ボーとしてとかなんとか、耳の外で無遠慮な声がしていたけど、こっちに気付いた彼女と目が合って、それどころではなかった。どうしていいか分からず、なぜか悪さをして叱られた後のような後味の悪い気分に弾かれて、俺はその場から走って逃げ出した。
出会いというほど直接的なものではないけど、それが彼女との初めての出会いだった。陰鬱な部屋の片隅で、彼女という存在は当たり前のようにそこに溶け込んでいた。その意味を深く知ろうとしないまま、彼女と関わり合おうとした俺は、やっぱり馬鹿だったのかもしれない。でも、その頃俺の心を支えていてくれたのは、多分、彼女だった。
ドンガラガッシャーン!
「……んぁ?」
なにやら、ド派手な音がして目を覚ました俺は、まだぼんやりと夢の世界を行き来している思考回路を持て余しながら、とりあえずベッドから体を起こした。いつの間にか部屋は薄闇に包まれていた。カーテンもしていないのにと、そんなにも寝入ってしまったのだろうかと部屋の明かりをつけて、目覚まし時計に目をやると、目覚ましはまだ五時半を少し回った辺りをさしていた。
少し湿った匂いが部屋の中に匂い立つ。窓を叩く激しい雨音が突然の天候の変化を告げていた。そして、派手に鳴り響く雷の音が空気を劈いて、窓の外で稲光る。
「……おいおい」
確か天気予報では、梅雨の到来はまだ少し先だと言っていたはずだが。しかしまあ、もう六月に入れば天候なんて人間の気分並みにコロコロ変わるもんか。それにしても、これじゃあ、降水確率0パーセントって言い切った気象庁の立場なくね? 今頃抗議の電話でも鳴り響いてたりして。洗濯物てめえらが取り込みに来いごらあ! いや、いや、ご愁傷様です。
って、そういや、夏菜は今日、傘持ってったかな。いや、降水確率0パーセントで傘持参ってどんだけ他人を信用しない根暗だよ。にしても、この雷ってやばくね? 夏菜の奴、今頃口から泡吹いてぶっ倒れてるかもな。昔から、雷とゴキブリと納豆だけは大の苦手なんだよな、夏菜の奴。って、言ってる場合じゃねえな。仕方ねえ。この雨じゃ部活の練習も切り上げてるだろ。ここは、心優しきこの俺様が救いの手を差し伸べてやるか。
「ったく、しょうがねえな……」
面倒くさがる体を起こし、頭を掻く。その時、ふと左手首にいつもつけてるお守り代わりのビーズのブレスレットが視界の中に入ってきた。
「……いくか」
ため息を一つついて、俺は足早に部屋を後にした。