第7章
それから数日間、牧は頭をひねりながらも、物語の大筋を紙にまとめ上げた。彼女はその紙をスカートのポケットにねじこむと、林の奥のあの白い洋館へと急いで出かけた。林の茂みはマリとの散歩の時にできた踏みならした草が細い小道を作っていて、悪戦苦闘したのが、嘘のようにすんなり入ることができた。そうして、元々あった林の小道も抜けると、緑の生け垣と白い洋館が見えてきた。
「やっぱり、幻でもなんでもない…」
牧はそんな言葉を呟きながら、生け垣の木戸を開けて真っすぐ白い洋館へと歩いて行った。家に近づいてみると、中央のガラス張りの両開きの扉が、この間と同じように開け放たれていた。中をのぞき込むと、これまたこの間と同じようにテーブルの上に飲みかけの紅茶とティーポットが置かれていた。それを見た牧は一瞬ぎくりとした。
なぜかと言うと、その紅茶のティーカップとティーポットの位置といい、飲みかけの紅茶の量といい、最初に来た時と全く同じ状態なのだ。あれから数日経っていると言うのに、紅茶を片づける人は誰もいなかったのだろうか。牧は不審の目でそれらを見つめた。
しかしその一方で、牧はこの間と同じように家に誰も人がいないことを確かめた。今日もまた家の中から返事はなかった。すると彼女はこっそりと、家の中へと入ると、二階の階段を上り、例の書斎へと足を踏み入れた。果たしてそこには、あの時元通りに置いた書きかけの本が机の上に置きっ放しにされていた。書きかけの文章は、やはりあのままで止まっていた。牧は椅子に座ると、ポケットに入れた紙を取り出し、それを元にこんな物語を作り上げた。書きあげるまで牧は幾日か、かかったが、その間彼女は、ずっとこの白い洋館へと通いつめることになった。
『ガラルータ国の王女は城の塔に何日も閉じ込められていた。塔には灯りが一つもなく、彼女は今が朝なのか、夜なのか判断することもできなかった。そもそもなぜ、こんなことになってしまったのかというと、話は数週間前までさかのぼる。
ガラルータ国の王、つまり王女の父君は、邪な心を持つ魔法使いから国の富の半分を自分によこさなければ、恐ろしいことを引き起こすぞといった内容の書状を受け取ったのだ。それを読んだ王はかんかんになって怒った。
「全くけしからぬ奴だ。このわしを脅そうというのか」
普段は温厚な王が怒るとは珍しいと思った王女は、王に理由を尋ね、送られてきた書状を見せてもらった。
「それで王はこの魔法使いをどうされるつもりなのですか」
王女がそう訊くと王はこう言った。
「何、単なる脅しだ。恐ろしいことなど起きるはずもない。放っておくのが一番だ」
「ですが、この魔法使いは結構な力を持つ魔法使いだと聞いたことがあります。本当に良いのでしょうか」
「ははっ。姫は心配者だな。わしはむしろ、そなたがよく分からない呪文書を読みふけっていることの方が心配だ。あまり魔法使いのようなまねごとはやめて欲しいものだ」
王女は一瞬顔を赤らめた。
「王もいつも、知識を深めることは良いことだとおっしゃってるではありませんか」
「だからと言って、呪文書は必要ないだろ。おまえは王女であって魔法使いじゃないのだから」
そう言われると、王女は返す言葉もなくうなずくほかなかった。
城の地下には各国から集められたたくさんの蔵書が並ぶ部屋があった。薄暗い部屋の中でろうそくの灯りをたよりに、様々な本を読むのが王女は好きだった。
各国の歴史書や、未だ聞いたこともない未知の国の話や、古くから民に伝わる伝承や、剣術の習得の方法など、とにかくありとあらゆる本が置かれており、王女は手当たり次第に読み漁っていた。そんな中、王女がたまたま手に取った本の中に、呪文書が混ざっていたのだ。興味を持った王女は読むだけでは飽き足らず、今では簡単なまじないぐらいはできるようになっていた。もちろん、それは王には秘密だった。
そうしてこの書状を受け取ってから数日後、急に王の様子がおかしくなった。いつもは民に示しがつかないからと言って自らも質素倹約に努めていた王が、突然豪華な食事を申しつけたり、きらびやかな服を新調したりと今までなかった行動を取り始めたのだ。しかし何よりも問題だったのは、王の態度だった。
何が不満なのか、よくは分からなかったが常に苛立ち、ちょっとしたことにも文句を言い、思い通りにならないと召使いや側近の兵にまで手をあげるようになったのだ。さすがにこれはおかしいと王女は思ったが、いったい王の身の上に何が起こったのか、全く見当がつかなかった。そうしてしばらく考えあぐねた末、王女は呪文書のことを思い出した。
『そういえば呪文書の中に真実の心を映し出す魔法が書かれてたはず…』
王女はすぐさま呪文書のページをめくり、その魔法がのっているページを開けた。そこにはこんなことが書いてあった。
『満月の晩に、銀盤に月のしずくをなみなみと注ぎ、次の呪文を唱えること。さすればその水面に真実の心が映されるであろう』
と、記されていた。王女はこれは幸運なことだと思った。
なぜなら、その日がまさに満月の夜だったからだ。そこで彼女はその夜、自室の窓辺に小さな丸テーブルを置き、その上に銀製のスープ皿をのせた。
真夜中、皆が寝静まったのを確認すると、王女はテーブルの上のスープ皿に水をなみなみと注いだ。月のしずくなど、実際にこの世に存在しないことは百も承知であったが、王女は窓から降り注ぐ月の光を、スープ皿の水面に映すようにした。呪文書に書かれているまじないや魔法の方法は言葉通りに書かれてあることは稀であった。自分でその言葉の意味するところを、見つけ出さなければ、その方法を習得できないようになっていた。誰もが魔法を使えるわけではない、そう言った意味合いが込められているようだった。王女は月のしずくとは、月の光を映した水のことだろうと解釈すると、その映し出された月の光に向って、呪文書の書かれてあった呪文を唱えた。
すると水面にはある人物が映し出された。てっきり王の姿が映し出されるのかと思いきや、それは例の書状を送ってきた魔法使いの後ろ姿だった。黒いローブを身につけ、手には漆黒の杖を持っている。そしてどこかへ向かって歩いて行く魔法使いの姿が映し出されていた。見ているうちに彼の様子は徐々に変わっていった。最初のうちは何がどう変わっているのかよく分らなかったが、最終的な彼の変わりようを見て、王女は思わず
「あっ」
と、叫んでしまった。驚きとともに彼女が見たのは、紛れもないガラルータ王の後ろ姿だった。王女が叫んだ瞬間、水面に映しだされた王がくるりとこちらを振り返った。王はこちらの姿がまるで見えるかのように、王女を鋭い目でにらみつけた。
「見たな! お前は城の塔に閉じ込めてやる。そうして誰にも見つからないで、飢えて死ぬのだ」
いるはずのない魔法使いの声が、王女の耳元にとどろくと、彼女は慌ててその場から離れようとした。
が、急に身体が動かなくなり、声すら出せなくなってしまった。いったいどういうことなのだろうと思う間もなく、彼女は突然後ろから物凄い力で引き寄せられた。その力は彼女の意志とはお構いなしに、後ろ向きのまま、王女を無理矢理歩かせ、部屋から出させると、今度は城の幾つもの回廊と階段を、そのまま後ろ歩きのまま、とてつもない速さで歩かされた。
目に見えない力と、どこへ連れて行かれるのか分らない恐怖に、王女の心は心底怯えていた。そうして、実際にたどり着いた場所は、あの声が言っていたように、城の塔のてっぺんにある小部屋であった。王女が部屋の中へ入ると、小部屋の鉄の扉はひとりでに閉まり、鍵がかけられる音がした。そのとたん、今まで身体の自由がきかなかった王女の身体は、ようやく自分の意志で動けるようになった。
すぐに王女は扉を叩いて、声をあげて助けを求めたが、それは無駄だった。真夜中のせいもあったが、もともとこの小部屋は大昔は幽閉など、いわくありげな使い方をされていた部屋であり、今現在は一切使われていない部屋だった。そのため、人が来ることなどまずなかったのだ。もちろん王女も、数時間おきに、扉を叩いて人を呼んだが、王女の声に気づく人は誰もいないようだった。こうして王女は城の塔に閉じ込められ、数日を過ごさなければならなかった。塔には窓もなく、灯りもなかったため、王女の心はどんどん落ち込み、しまいには絶望的な気持ちになってしまった。
『本当にあの魔法使いが言ったように、私は飢えて死んでしまうのだろうか』
思わずそんな良くないことが頭をよぎりながらも、王女はひたすら助けが来るのを待った。そうして幾日が過ぎてから、ようやく待ちに待った助けが現れた。
小部屋の鉄の扉を開けたのは、侍女のエルダだった。
「まあ、姫様。こんなところに閉じ込められていたのですか。お可哀そうに」
むしろエルダの方が涙ぐむものだから、王女は逆に彼女をなだめながら、こんなことになってしまった事情を彼女に話した。
「なんてことでしょう。では、あの王様は例の魔法使いがなりすましているのですね。私もおかしいと思ったんですよ。急に姫様がいなくなって、王様に訊いたら、隣の国に重要な使命を帯びて行ってもらった。当分は帰ってこないって言うんですよ。それにしたって侍女の私に何も言わずに姫様が出かけてしまうなんて、一度もないですからね。だからなんだか、変だと思ったんですよ。それに王様の態度も日を追うごとに横柄な態度になる始末で、これはひょっとしたら、ひょっとしてと思ったんですよ。王様に関わることを姫様が知ってしまってどこかに閉じ込められているんではないかってね。案の定、そうだったし。でも誰も、王様が魔法使いだなんて気づかないでしょうね。何しろ、王様にそっくりですもの」
エルダが怒ったり、びっくりしながらも、そう説明を終えると王女はエルダに頼んで召使いの服を一着持ってきてもらった。
「この服どうされるんですか」
エルダが驚きながら訊くと
「私が着るのよ」
と王女が答えた。
王女は自分が閉じ込められていたように、王もまた閉じ込められたに違いないとにらんでいた。エルダに聞いたところによれば、自分を探す時に、人の閉じ込められているような場所は全て見て回ったが城の塔以外は、人っ子一人いなかったという話だった。恐らく人の探せない秘密の場所に王は隠されているのだろう。魔法使いにとって、王は何かあった時の重要な人質のはず。きっと魔法使いの目の届くところに王を隠しているのだと王女は考えた。そこで王女は召使いになりすまして魔法使いの様子を窺うことにしたのだ。
こうして数日の間、王女は魔法使いを見張っていた。そうしてあることに気がついた。それは何かというと王の自室に掛けられている丸い鏡を、魔法使いが、ことあるごとに見つめているのだ。
きっと鏡の後ろに秘密の入り口でもあるのだろう。王女は魔法使いが部屋から出るのを見計らうと、部屋の中へと飛び込んだ。
王女は誰もいないのを確認すると、すぐさま丸い鏡の後ろをのぞき込んだ。けれどもあるのは普通の壁だった。試しに押してもみたが、秘密の入り口らしきものは何もなかった。当惑した王女はまじまじとその鏡を見つめた。
鏡の後ろに何もないというのなら、秘密を握っているのはこの鏡自体。きっと何かがあるはずだ。王女は鏡の細部を細かく調べたが、怪しいところは何もなかった。もはや、あきらめの境地で王女は鏡を元通りに掛けてみた。そしてもう一度だけ、その鏡を眺めてみた。と、その時、王女は鏡の隅っこに黒猫が映っていることに気がついた。
思わず後ろを振り返ったが、部屋の中には黒猫など一匹もいなかった。王女は鏡に近づいてその猫を観察すると、首にロケットがぶらさがっているのを発見した。しかもそのロケットは、王が肌身離さず持ち歩いている亡くなった妃の姿が入っているロケットと全く同じものだった。
「大変だわ。王は黒猫の姿にされて、鏡の中へ閉じ込められてしまったんだわ」
王女は慌てて呪文書をひもとくと、別世界へ入る呪文を見つけ出し、早速鏡の中へ入る準備を整えた。そうして侍女のエルダに見張りを頼むと、自分に巻きつけたロープを彼女に手渡した。
「いいこと、エルダ。私はこれから鏡の世界へ入る呪文を唱えるわ。行って、王を連れて帰ってくる。でもこれは鏡の世界へ入るための呪文であって、鏡の世界から、こっちの世界へ戻る呪文については一切記述が載ってないの。もし、しばらくたっても戻ってこないようだったら、思い切りこのロープを引っ張って」
エルダは託されたロープを握りしめると、大きく一つうなずいた。
王女は別世界へ入る呪文を唱えると、目をぎゅっとつぶりながら、鏡に向って頭を突っ込んだ。いくら魔法とは言え、鏡の中に入るなどあり得ないことだった。下手をすれば頭にこぶができるかもしれないと王女は思っていたのだが、なんなく頭は鏡の世界の中へと、入ることができた。王女は安心すると頭だけでなく、手も足も体も全部すっかり鏡の中へと入れてみた。
鏡の中へと入ってみると、何もかもが奇妙にゆがんでいた。鏡というからには、物の位置が左右逆なだけなのかと思っていたのだが、床もゆがんでいて、とても歩きづらかった。その中で、黒猫だけがしっかりとした形をしていて、あっちこっちを歩き回っていた。
猫なだけあって、動きがすばしっこく、王女は捕まえるのに一苦労した。なんとか黒猫を捕まえると、王女は自分の世界へ戻ろうとして、入ってきた鏡を探した。しかしどこにも鏡が見当たらない。
そもそも自分は、この世界に入ってきた時、どこから出てきたのだろうか。自分の世界では鏡が出入り口かもしれないが、鏡の世界でも同じように鏡が出入り口とは限らないのかもしれない。そこまで考えて、王女は自分に巻きつけたロープのことを思い出した。ロープの先の方は部屋のドアの向こう側へと消えているのが分かった。その時、エルダが引っ張っているのか、ロープが急にぴんと伸びて、王女はぐいぐいとドアの方へと引き寄せられた。王女は確信を得ると、すぐさまそのドアを開け放った。
王女は転がるように鏡の中から飛び出してくると、身体をしたたか床に打ちつけてしまった。それと同時に手に抱えていた黒猫を思わず放してしまった。
「ドサッ」
突如、大きな物音が辺りに響いたかと思えば、手を放したはずの黒猫は見る間に王の姿へと変わっていた。
「ああ、王よ。よかった。そのまま黒猫のままだったら、どうしようかと思ってたんです」
王女は自分の身体のさすりながらも、安堵した表情を浮かべた。
「王様、姫様。ご無事で何よりです」
またエルダは涙ぐみながら、二人の帰還を喜んだ。
「いったい、これはどういうことだ」
王は自分の身の上にいったい何が起きていたのか、全く知らないようだったので、王女は事の仔細を話した。すると王は大いに怒り、魔法使いを即刻、捕らえると国外へと追放してしまった。
またエルダは王女の活躍ぶりを、王に嬉々と語ってきかせた。それを聞いた王はやれやれと言った様子で王女に声をかけた。
「どうやら今回は、おまえの魔法使いのまねごとが功を奏したようだな。これは頭ごなしに否定するわけにはいかぬな」
「そう言って頂けますと、助かります。私は王に認めてもらおうとは思いませんが、どんな本も読む自由を私にお与えください」
「読む自由とな。分かった。そなたの好きにするがよい」
「王よ、ありがとうございます」
こうして王女は、心おきなく本が読める権利を獲得した。これにより王女は以前にもまして読書に励むようになった。 めでたし、めでたし』