第5章
牧はすぐにでも本の中の王女を救うべく、書きかけの本の続きを書こうとした。そのつもりで、書きかけの本を書斎の机の上に置き、椅子に座って側の鉛筆を使って書き進めようとした。けれどもそれから数十分たっても、牧は一字も書くことができなかった。王女をどうやったら塔から救い出すことができるのか、牧にはその方法が思いつかなかった。それから物語の文章とは、いったいどのように書けばよいものか、牧には見当もつかなかった。
試しにその本の前のページをめくってみたのだが、驚くことに一文字も何も書かれていなかった。その前の前のページも、そのまた前のページも同じで、全てのページが真っ白の状態だった。書き方の参考になるどころか、なぜ王女が塔に閉じ込められてしまったのか、その物語の筋すら、牧には知る方法がなかった。分からないなら、自分で作るしかない。
牧は途方に暮れながらも、そう思った。しかしそうであるなら、自分は書く前に、王女がなぜ捕らわれてしまったのか、それについて考えなくてはいけない。物語というのは、紙と鉛筆があれば、自由にすぐに書けるものだと、牧は思っていたのだが、実際はそうではなく、まずは考えなくてはならないことを牧はその時初めて知った。考えなければならないなら、今ここですぐに書くなど、到底無理だと彼女は悟ると、書きかけの本を元の位置に戻し、紙切れを青の部屋の宝箱の中に閉まって、元通りに直した。宝箱の鍵もカモフラージュの本の中へと入れると、牧は最初見た状態に全てを戻し、白い洋館を出た。
王女は救うにはどうしたらいいのか、物語はどうしたら書けるのだろうか。翌日の算数の授業中、牧の頭の中はそのことだけで、いっぱいだった。あの後、牧は本や宝箱を元通りにして、洋館の庭先に出ると、自分が果たさなければならないもう一つの仕事をたちまちのうちに思い出した。というのも、外に出た庭で、マリが全力疾走で走り回っているのを見たからだ。家の中の部屋を全部見て回ったにも関わらず、いったいどうやって、家の外に出たのか、牧には分からなかったが、またややこしいことにならないうちに、今度こそは逃すまい庭の隅の方になんとか追いやり、やっとこさマリを捕まえることができた。マリは悪びれた様子もなく、むしろまだ遊び足りなそうに、リードをぐいぐい引っ張って行こうとする。牧は思わず肩をすくめながら、白い洋館を振り返った。あんなに大きな家で誰もいないなんて。なんて、不用心なんだろう。いったい誰の家なのだろうか。
物語を作らなければならない他にも、牧にはそういった解かなければならない謎があった。そこで牧は夕飯を作っている母親に白い洋館のことをさりげなく訊いてみた。
「ねえ、お母さん。あの林の茂みの向こうに白い西洋館があるのって知ってる?」
母親は包丁の手を止めると、牧の方を振り返ってこう答えた。
「ここらで西洋館なんて、見たことも聞いたこともないわよ。いったい誰から聞いたの、そんな話」
「誰から聞いたってわけでもないけど…。いいや、なんでもない」
「あら、そう。お母さんも近くに西洋館があるなら、見てみたいわ。だって素敵じゃない」
母親の返答を聞きながら、母が知らないなら、学校の友達にでも訊いてみようと牧は思った。それで彼女は算数の授業が終わると、クラスメートの子達に片っ端から声をかけてみた。
「ねえ、ねえ。あそこの林の茂みの奥に白い西洋館があるのって知ってる?」
「えっ、林の茂みの向こうって。だってあそこ行き止まりなんじゃないの」
「そうだよ。だって道がないじゃん」
「あんな草むらの中に入りたくないよね。蛇とか出てきそうで怖いし」
「あそこ、昼間でも暗くて怖いよね」
「幽霊とか出そうで、怖い。行きたくない、あそこ」
「でも、なんでそんなこと訊くの」
「えっと。なんかそういう話を聞いたから、ほんとかなあと思って」
牧はとっさに嘘をついた。なぜか言ってはいけないような気がして。
「あったとしたら、そこは絶対幽霊屋敷だよ」
「うわっ。怖い夜な夜な女の悲鳴がとかでしょ」
「この間、心霊特集TVでやってたけど、あれ見た?」
「見た、見た。あれ、すっごく怖かったよね」
彼女達の会話が白い洋館から話題がそれると、牧は会話から離れて他のグループの女の子や、男の子達にも話を訊いてみた。けれども、誰もあの白い洋館について知っている人はいなかった。
『ひょっとして、幻?』
とっさに牧はそんな思いがよぎった。しかし、それにしてはとてもリアルで、手に取った本や鍵の手触りが今も鮮明に残っている。あの家が幻や夢のはずがない。今も林の向こうに行けば、必ずあの洋館はあって、物語の書き手を待っているに違いない。
白い洋館の持ち主が誰なのか、もちろん、それも知りたかったが、今大事なのは物語の書き方だった。どうやったら、うまい文章が書けるのか牧はどうしても知らなければならなかった。うまい文章と言えば、読書感想文で褒められていた小林沙織のことが思い当った。彼女に話を訊こうと思ったが、そろそろ授業が始まりそうだったので、昼休みに訊くことにした。