第1章
ある日のこと、牧は学校から帰るといつものように犬の散歩に出かけた。ウェルッシュコーギーのマリは、短い足をばたつかせながら、意気揚々と先頭を切って歩いて行く。散歩がとても嬉しいのか、短めの尻尾が機嫌良さそうに揺れている。
犬の散歩は家の中での牧の仕事だった。もちろん牧は、マリのことは大好きだったが、犬の散歩は好きといういわけでもなかった。雨の日も、雪の日も行かなくては行けないし、マリの行きたい方向に歩いて行ってやらないと、マリはたちまち一歩も歩かなくなることは良くあった。
そんな時はリードをぐいぐい引っ張り、なんとかして、牧の行こうとしている道へ連れて行こうとするのだが、結局のところ、マリの行きたい道を選ぶことになるのだ。大抵そういった時は、牧は読んでいる本の続きが気になってしょうがないことが多かった。とにもかくにも、早く散歩を終わらせて、本の続きが読みたい。その一心で、散歩の距離が短い道を歩かせようとするのだが、、マリはそれを嘲笑うかのように長い距離の道を行こうとする。根負けした牧はマリの言うことを聞くことになる。それはそれで、気持ち的にかなり憂鬱になるのは間違いなかった。
今日もまた、牧の脳裏は読んでいる本の続きのことでいっぱいだった。できることなら、短い散歩コースをマリが歩いて行くことを願っていた。家の前の坂道を登り、しばらく真っすぐ行くと、道が二手に分かれている。左側の道に行くと、小さな畑が連なり、その合間に古びたアパートが何棟か立ち並んでいる。そのまま更に先に進むと、左に折れる道があり、その先は中学校になっていた。一方右の道を取ると、左側には真新しい住宅地が広がり、右側にはそこだけ取り残されたような鬱蒼とした木々が群がっていた。
散歩の距離が短いのは、右の道の方だった。果たしてマリはどちらの道を選ぶのだろうか。牧が後ろから見守っていると、マリは迷う様子もなく右の道を選んでくれた。牧は思わずほくそ笑んだ。今日は散歩がいつもより早く終わりそうだと彼女は思った。
マリは力強くリードを引っ張り、立ち止まる気配などこれぽっちもなさそうだった。まさに散歩は順調そのもの。ただ一つ気になることがあると言えば、道の右側沿いにある茂った木々のことだった。そこはちょっとした林になっていて、木々が多いせいか昼間でもあまり日差しを通さない暗い陰が常に辺りを支配していた。通りがかりに、頭上から、鳥の鳴き声が聞こえると、背筋がぞくぞくすることはよくあった。きっとここには何かあるに違いない。そう思ったことは一度や二度ではなかったが、それでも散歩のコース的には、最短の距離だったので、牧はこの道を歩くようにしていた。
日はまだそれほど、低くなっていなかったが、林の中は暗闇に包まれ、不気味な静けさをたたえていた。牧は、そちらをあまり見ないように歩を進め、左側の新興住宅地に視線をそらした。
何人かの男の子達の騒ぐ声がどこからともなく聞こえてきた。ボールで、遊んでいるのか、ぼーん、ぼーんと弾むような音が道路を通して伝わってきた。彼らの姿は見えなかったが、住宅街の坂の上で遊んでいるようだった。
ここの住宅地は小高い丘の上に造られていたので、どこをどう通っても坂を通らずに、家にたどり着くことはできなかった。歩くのも大変だが、ボールで遊ぶ子供達にとっても、これはこの上なく不便なことだった。遊ぶ場所は当然平坦な坂の上と決まっている。そうでないと、ボールがごろごろ転がっていってしまうのだから。けれどもボールというのは、決まりきったように、動いてくれるものでもない。
突如、男の子達の甲高い歓声が上がった。それと同時に
「ボーンッ」
と、さっきよりも大きな音を立てたボールが弾みながら、坂道を猛烈な勢いで下ってくるのが見えた。
「サッカーボール」
そう思った時、そのボールは牧のすぐ目の前まで迫ってきた。ボールは道路に落ちてた石ころか何かに当たったのか、牧の背丈ほどの高さまで、ぽーんと跳ね上がった。びっくりした牧は目をつぶり、とっさにリードを放してしまった。
「ウーッ、ウォンウォン」
牧の耳にマリの嬉しそうな声が響いた。はっと気がついて目を開くと、ごろごろと転がって行くボールを負けじと追うマリの姿が林の奥の茂みへと消えて行くのが見えた。
「マリッ」
牧は怒ったように叫んだが、マリが戻ってくる気配は一向になかった。
ああ、なんてことだろう。牧の顔は、とたんに青ざめた。これでは早く家に帰るどころか、とっぷりと日が暮れるまでの大仕事になってしまう。牧は、とっさにそんなことを思った。しかしここで、この事態を悲劇的にとらえている暇もないことも知っていた。マリは、とてもすばしっこかったし、何よりも好奇心旺盛ときている。行きたいところにどこであろうと行ってしまうに違いない。今すぐ捕まえなければ林の奥の奥まで行ってしまうだろう。
その時、頭上から烏の鳴き声が聞こえてきた。裏寂しげなその声は、林の木陰を物憂いものへと変えていくような気がした。辺りでざわめく葉ずれの音は、牧の心にひんやりとした恐怖を、少なからず与えた。牧は背の高い木々を見上げると、身震いした。できることなら、林の奥へは行きたくないと彼女は思ったが、ついにあきらめたのか、視線をのろのろと茂みへと戻すと、ゆっくりとした歩調で林の奥の茂みへと近づいて行った。