プロローグ
小学六年生の女の子の牧は、ぼんやりと校舎の窓の外を眺めていた。校舎の側に立つ一本の木に、蝉が夏を惜しむかのように最期の力を振りしぼって鳴いていた。長かった夏休みが終わり、二学期の授業が始まると、最初にやることは夏休みに課せられた宿題の提出だ。その宿題の中で、出来栄えの良かったものは、先生からクラスメートの前で発表される。
今は国語の時間。国語の夏休みの宿題で、皆の前で発表されるものは、読書感想文と大抵決まっていた。
牧は本を読むのが好きだった。クラスの中の誰よりも、多くの本を読んでいる。それだけは誰にも負けるつもりはなかった。けれども、読書感想文に至ってはからっきし駄目だった。今年も、小林沙織という子が先生から指名され、その読書感想文を読み上げていた。
「ジジが述べた言葉で印象的だったのが『人生でいちばん危険なことは、かなえられるはずのない夢がかなえられてしまうことなんだよ』といった部分です。私は夢がかなえられるのは、とてもいいことだと思っていました。でも夢がかなえられて、夢がなくなってしまったら、どんなに寂しいことなのかということを知りました。時間を貯蓄して、成功しても、それが必ずしも幸せであるとは限らない、この本はそれを教えてくれました」
彼女は、牧も大好きなミヒャエル・エンデの『モモ』を読書感想文に書いていた。沙織が指摘していた箇所は牧もまさに胸を打たれたところであった。
「小林さんはこの本を読んで、とても大事なことに気がついたようですね。みんなも、この本を読むことがあったら、いろいろ考えてみてくださいね。それでは教科書の三十六ページを開いてください」
先生は、自分の教え子がなかなか素晴らしい感想文を書いたと思ったのか、満足げに微笑んでいた。
牧はそんな様子を見つめながら、うまいこと書くものだと思った。この小林沙織という子は、取り立てて、本を読む子ではない。しかし、みんなが共感しそうなところをうまい具合につかみ、良い文章をいつも書いてくるのだ。それを考えると、自分はてんで駄目だと牧は思う。みんなが感じ入りそうなところを書こうともしない。それどころか、自分の感情を表に出すことすら、苦手だった。そのせいか、普通の作文も褒められることはなかった。褒められるのは、自分の思ったことをきちんと書ける子ばかりだった。
しかし牧には一つの夢があった。五年生の文集作成の時、文集の最後のページに、みんなの将来の夢を載せるという話になった。当時学級委員だった奈良真由美がクラスメートの夢を聞きとり、一枚の紙にまとめあげていった。みんな、夢はそれぞれだ。学校の先生、看護婦さん、歌手、マンガ家、お嫁さん…。
牧のところにも彼女は訊きに来た。
「それで斉藤さんの将来の夢は何?」
「小説家」
牧がそう答えると、彼女はぽかんとした表情をした。なぜ、作文もうまく書けないような子がそんなことを言うのだろうと、彼女の目はそう言いたげだった。牧は、恥ずかしさのあまり顔から火が出そうだった。なんと身の程知らずのことを言ってしまったのだろうか。牧は後悔せずにはいられなかった。
奈良真由美は牧からその夢を聞くと、すぐに他の子達の夢を訊きに、彼女の席から離れた。だが、牧の胸の鼓動は早鐘のように鳴り響いていた。けれどもだからと言って、牧はその夢を否定するつもりはなかった。身の程知らずと思いつつも、自分はこんなに本を読むのが好きなのだから、いつか自分も本を書くに違いない。どうみてもそれは確信のない根拠だったが、牧の中では、それは至極当然のことで、決まりきったことのように思えた。
そんなことがあってから、牧の夢は小説家ということになっていた。しかし彼女は特に何もしなかった。いつもと変わらずたくさんの本を読み、苦手な読書感想文に頭を悩まし、六年生の夏休みも何事もなく過ぎていった。