第三話 出くわしたものは
そして、体感時間で一時間ほども歩いた頃だろうか?
さすがの弘も、これはおかしいと思い出した。
舗装道路はおろか、なんの人工物も見えてこない。
(う~わ、完全に迷っちまったかな? マジで、ど~するよ?)
こうなると、自分を拉致した連中のことなど頭から飛んで消えてしまう。バイト予定については頭の片隅に残っているが、とにかく今は木々や藪しかない場所から脱出したい。
これまでは拉致されたことによる『怒り』、この状況から簡単に脱することができるという『楽観』があった。
そして現在、弘の意識を『焦り』が塗りつぶそうとしている。
バイトを諦めて朝になるまで待つか?
そういった考えも浮かぶが、ここで弘は少し開けた場所に出た。
五メートル四方と言った広さであろうか、正方形とまでは行かないが四角に近い状態の空間。朽ちた落ち葉が堆肥となっており、膝髙ほどの若木が点在している。
山中、あるいは森の中で迷子という自体が解決したわけではないが、それでも弘は少しばかり落ち着きを取り戻していた。
「へっ、なんだよ……空き地みたいなの、あるんじゃん?」
引きつった口元を歪ませて笑うと、ポケットからタバコケースを取り出そうとする。
休憩がてら、またも一服するのだ、
誘導灯を左手に持ち替えると、空いた方の手で新たに一本くわえ、若干震える手でライターを口元に……。
ガサガサッ!
突然、周囲の藪で物音がした。
何かが動いている。その音が何カ所からも聞こえるのだ。
野犬、あるいはイノシシだろうか?
だが、弘は今の物音を、自分を拉致した連中が発したものだと思った。
こんな状況で出くわすのはできれば人間であって欲しい。また、現れるのが拉致犯人らであるなら、殴ってストレスを発散したいと考えたのである。
「おう、こら! びびってんじゃねーぞ! 出てきて俺にボコられろ!」
弘自身が大いにびびっているのだが、そこはそれ元ヤンキー少年。怖くとも声は出るのだ。
ところが、言われて出てきたのは野犬やイノシシではなく、ましてや拉致犯人でもなかった。
「キキッ! ギイイ!」
猿のような声、弘の腰より少し低いぐらいの背丈。
身にまとっているのは薄汚れたボロ切れを巻き付けて、腰の位置で縛っただけの衣服。
誘導灯により照らし出された体色も変だ。全身が深緑、同じ色の御面相(ちなみに頭髪は皆無)は、見てて胸がムカついてくる。だが、何よりも弘の目を引いたのは、洋風ファンタジー漫画に出てきそうな両刃のナイフを持っていることだった。
(全員ナイフ持ちで、五人もいるのかよ! 囲まれちまったぞ!)
弘は暴走族にいた頃、喧嘩でナイフを振り回したことがあるし、相手がナイフを持ち出したこともある。しかし、今目の前で相手が持つ刃物は、かつて見たどれよりも幅広の物だ。
(何考えてんだ、こいつら! あんなので刺したら死ぬだろーが!)
刃渡りは二十センチほど、そして刃幅は五センチと言ったところか。まさに、ちょっとした鉄板である。
体格の違いから一対一で負ける気はしなかったが、相手は五人で全員がナイフ持ち。
勝てる要素が見あたらないどころか、滅多刺しにされて死ぬ気しかしない。
じゃり……。
後ずさるのだが、囲まれているために後背のチンピラ(?)に近づくだけで終わってしまう。
どうするか? 多少怪我するのを覚悟して突っ切るか?
(ん?)
弘は、左斜め前のチンピラが眩しそうにしているのに気がついた。その手で覆おうとしている顔には白い光が当たっている。
(そういや、これがあった!)
とっさに左手を動かすと、弘は誘導灯を大きく振った。
白色LEDの光線が、チンピラ達の顔面を高速で撫ですぎていく。
それだけで充分だった。
闇夜の中、誘導灯の光で多少は明るかったとは言え、LEDライトをもろに照射されたのでは溜まったものではない。
五人のチンピラは「ぎい」だか「ぎゃあ」だか叫びながら、もだえ苦しんだ。
相手の人数とナイフに腰が引けていた弘であるが、この機会を逃すほど腰抜けではなかった。素早く駆け出すと、真正面のリーダー格と思しきチンピラの顔面を蹴飛ばす。それが仰向けに転がるのを最後まで見ることなく、反時計回りに駆け出すと、相手に誘導灯の光を浴びせながら一人、二人と近い順に殴り倒していった。
しかし、四人目の顔面に膝を入れて吹っ飛ばしたところで、左腕に焼けるような痛みを覚え、弘は足を止める。
「うあちっ!」
見ると、左手の手首と肘の間あたりに赤黒い線が走っており、血が流れ出していた。
斬りつけられたのだ!
どうやら最後の一人は、他の者の有様を見て危険を感じたのか、光を浴びせられないように避けていたらしい。
カーッと、弘の頭に血が上った。
「てっめえええ! 痛ぇえじゃねえか! このクソがああああああ!」
なおも斬りつけてくるのを一歩二歩と後方へ飛んで避ける。その際、前に突きだし気味だった誘導灯を斬りつけられてしまった。
漫画のようにスパッと斬り飛ばされはしなかったものの、断線でもしたのかライトが消え、周囲が闇に包まれる。こうなると先程まで光源があっただけに、やたらと暗い。
「ギ、ギギ!?」
相手も戸惑っているようだが、次はどうするべきか。
(怪我しちまったし、逃げるか?)
思い起こせば、もう自分は現役の暴走族構成員ではないのだ。そして未成年でもない。
これ以上は正当防衛じゃないかも……あとバイトが……。
サーッと血の気が引いて、思考が社会人っぽくなった弘は、踵を返して走り出そうとした。
そこへ背後から一撃加えられたのである。
ざしゅっ!
「ぐぎっ!?」
背骨付近から左腰にかけて斬られ、弘は片膝をつき、腰を落とした。
痛みからすると、浅く長く斬りつけられたらしい。
(足が!? 力が入らねぇ!)
人はビックリするほど痛い思いをすると、腰が抜けてしまうのか?
それとも単に腰が抜けただけなのか?
どっちにしろ立ち上がれない事実に変わりはない。
「ぎい、ぎゃぎゃぎゃああ!」
ガサリ……。
一歩歩み寄る、そんな音が聞こえた。
(まずい、追い打ちする気だ! それもナイフでかよ!)
相手が殺す気満々であることに、弘は震え上がる。
殺す。ぶっ殺す。死ね。くたばりやがれ。
喧嘩の上で、そういったセリフを吐いたことは何度もあったが、刃物を持って本物の殺意をぶつけられるのは初めてだ。
(だってよお、喧嘩に負けて自分が本当に死ぬとか……考えたことなかったし)
震えながら見上げる正面の暗闇から、徐々に相手の輪郭が浮かび上がってくる。
このまま間近にまで詰め寄られたら、相手の攻撃をかわすことなどできない。いや、怪我しつつ逃げ回ることはできるかもしれないが、そのうちに体力が尽きて……。
(い、嫌だ……。こんな……)
後ろ手に這いながら距離を取ろうとしたとき、弘の右手指に何かが触れた。
それは二番目、あるいは三番目に倒した相手の躰だった。
殴って倒しただけなのだが、まだ起き上がれてはいないらしい。
「ひいっ!」
慌てて手を引っ込めたが、同時に弘はあることを思い出していた。
(ナイフ……こいつら、みんなナイフ持ってたよな!)
すぐ後で倒れている相手も、ナイフは持っていたはず。
弘は無我夢中で後方の地面をまさぐった。
ときおり呻く相手の躰に触れるが、構ってなどいられない。その間にも足音は近づいてくるのだ。
ガッ!
何か、固い物を掴むことに成功する。
手触りからして石ころでもなければ、木の枝でもない。ナイフだ!
それを引っ掴んだ弘は、昔テレビで見たヤクザ映画の主人公のように、躰ごと正面の闇……今となってはうっすらと見える、相手のシルエットに突っ込んでいく。
いや、立ち上がることができなかったので、膝立ちの状態から前に倒れ込むような感じだ。そして……。
ぞぶり。
鳥肌が立つような気色悪い感触とともに、ナイフの刃が相手の躰に滑り込んだ。