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読み切り作品

生徒会室

作者: さわいつき


 目の前にあるドアノブに触れる寸前、伸ばした手が止まる。あとほんの数ミリメートル。それだけの距離がとてつもなく遠い物に思えて来て、結局胸元に手を引き戻してしまった。

 そんな事を、一体何度繰り返しただろうか。今立っているこの場所に着いてから、既に五分は経過していた。

 両手を胸の前で合わせ、わたしは深く息を吐いた。そしてやはり深く深く息を吸う。そうでもしなければ、窒息してしまいそうな気がした。

 さらに二分経過。次に手を伸ばしても触れる事ができなかったら、今日はもう諦めて引き返そう。そう心に決め、もう一度深呼吸をする。ゆっくりと伸ばした右手。傍目に見ても震えていると分かる、臆病な手。その手が、今回もやはりドアノブに触れる寸前に止まってしまった。

 結局わたしには勇気がないのだと再確認してしまっただけの行為に、自嘲の笑みが浮かんだ。

 その時。

「いつまでそうしているつもりだ?」

 突然開かれたドアの向こうに立つ人影に、わたしは心臓が止まるくらいに驚いた。不機嫌そうに細められた目は、記憶の中の物と同じ。

「あ、あの」

 まるで石のように動かなくなってしまった足が、小刻みに震える。睨みつけてやりたいと思うのに、心が萎縮して思うような態度を取る事ができないのが、我ながら歯痒い。

「何してんだよ。さっさと入れ」

 伸ばしたままの右手を掴まれ、そのまま室内に引きずられるようにして入ってしまった。

 てっきり他に誰かがいると思っていたのに、予想に反して、いつもこの生徒会室にいる面々の姿はない。

 妙な緊張が全身を包む。どうしよう。やはりさっさと引き返していればよかったのだろうか。

 室内には、この部屋の主である生徒会長とわたしの二人きり。

 近付いて来る足音に、耳に届く息遣いに、心と体が震えた。

 不機嫌そうなその表情を見るのが辛くて、顔を上げる事ができない。本当なら不機嫌なのはわたしの方なのに。なぜだか理不尽さを感じて閉口する。

「いつまで突っ立っているんだ。適当に座れよ」

 いつも以上に苛立ったようなその口調に、逃げ出したい衝動に駆られ、僅かに後退った。傍にあったパイプ椅子に足が引っかかり、思いがけなく大きな物音が室内に響く。その音に驚いて竦めた肩に、温かい物が触れた。それが自分の物ではない手だという事に気付いて、二日前の事を思い出して体が強張る。

「佐久間」

 耳から滑り込んで胸の底にまで響く、少し掠れた低い声。肩にかけられた大きな手。その声と手が、途轍もなく怖かった。

「逃げるな」

 体の向きを変えようとしたけれど、伸びて来た手に阻まれる。そのまま両手で絡め取られ、逃げる事も叶わなくなってしまった。

「い、いや。はな、し、て」

 震える体。震える声。こみ上げる涙を零さないよう堪えながら、必死に身を捩る。けれどわたしの力では適うはずもなく、それどころか抱きしめられる力がさらに強くなり、身動きもできなくなってしまった。

「離さない」

「離して」

「嫌だ」

「お願い」

「駄目だ」

周藤すどう先輩!」

「綾香」

 耳につけられた唇から紡がれる、わたしの名前。その掠れた切ない響きに、心が大きく震えた。

「はなし、て」

「逃がさない、と言っただろう?」

 耳朶に触れる唇に、びくりと全身が震える。弱い力で噛み付かれ、思わず上げそうになった声をなんとか飲み込んだ。

 体を抱きしめられていた力が、僅かに緩む。けれど逃げ出そうにも、膝が笑って力が入らない。

 耳元から離れた唇は、額に頬に鼻にそして唇の端にと柔らかな感触をもたらし、わたしの心を千々に掻き乱していく。

「好きだ、綾香」

 唇に、声と共に息がかかる。

 その言葉を信じる事ができれば、きっとこんなに苦しまずにすむのだろう。けれど信じてしまうには、あまりにも痛みを伴うこの想いが重すぎて。

「好きだ、愛している」

 二日前と同じこの部屋で。二日前と同じように抱きしめられて。そして二日前と同じ言葉が囁かれる。

「せんぱ」

 先輩、と言い切る前に、重ねられた唇にそれを阻まれてしまう。触れ合うだけの口付けは、次第に角度を変えて啄ばむような物に変わる。息苦しさに空気を求めて開いた隙に、生暖かい物が口内に侵入して、深く激しく繋がった。

 体が触れ合っている箇所から、深く繋がった唇から、周藤先輩の想いが流れ込んで来るようで。その切なさと激しさと愛しさに、頭がおかしくなってしまいそうなほどに酔いしれてしまう。




 好きになったのは、わたしが先だった。中学の時から四年間、ずっと先輩を見つめていた。見ているだけでいいと思っていた。

 その間にも周藤先輩の隣には、何人もの女の子が入れ替わり立ち代り並んでいた。そんな中の一人には、なりたくはなかった。そんなに軽い気持ちなんかじゃなかった。

 けれどそんな女の子の中にわたしの姉の姿を見た時、わたしの中の何かが壊れた。

 二つ上の姉は、身内の欲目がなくてもとても綺麗な人だった。妹のわたしは、密かにそれが自慢だったものだ。そんな自慢の姉を、先輩はその他大勢の女の子と同じように扱った。言い寄って来たから付き合って、抱いて、飽きるとすぐに捨てた。それは先輩にしてみればいつもの事であり、姉にしてもそれを承知で抱かれたのだ。

 けれどわたしは、先輩を恨んだ。嫌いになろうとしたけれどそれは叶わず、だから憎む事にした。すれ違うたび、目が合うたびに憎しみを込めて睨みつけた。胸の奥には先輩への恋心を押し隠しながら。

 そんなわたしに、周藤先輩が興味を持った。頼まなくても擦り寄って来る女の子とは毛色が違ったからなのか、それとも単に面白い遊びのつもりだったのか。

 憎しみを前面に押し出していたわたしは、けれど恋心を捨てる事ができなかったわたしは、宥めてすかして落とされた。

 二日前、この場所で。この生徒会室で、半ば無理矢理奪われた。

 昨日は体中の痛みと微熱で学校を休み、今日もまだあちこち調子がおかしかったけれど、なんとか登校して来た。

 あなたなんか嫌いだと。姉の恨みを忘れてなどいないのだと。その憎らしいくらいに整った顔に指を突きつけて言い放ってやるのだと。そう意気込んでいたというのに。

「体は」

 離れた唇から紡がれた声に、意識が現実に引き戻された。

「体は、大丈夫だったのか? 昨日、休んでいただろう」

 一応本気で気遣っているらしく、いつになく真剣に顰められた眉に胸の裡がじくりと痛んだ。

「大丈夫なわけ、ないです」

 初めてだったのに、ほとんど抵抗ができなかったとはいえ半ば無理矢理だったのだ。痛みは到底半端なものではなく、どうやって家に帰ったのかもよく覚えていなかった。

「だよな」

 溜息と共に腕が解かれ、すぐ傍にあった椅子に座らされた。正直立っているのが辛かったので、解放された事もあってほっとする。

 不意に頬に触れて来た手に驚き、椅子ごと後退った。先輩は正面にしゃがみこみ、わたしの顔を下から覗き込んでいる。

「可哀想な事をした、とは思う。けど、悪かったとは思わないから」

「え?」

 一瞬、何を言われているのか分からなかった。無理矢理奪っておいて、悪いとは思っていないだなんて、正常な神経の持ち主じゃない。

「お前の気持ちは、ずっと前から知っていたから。お前がずっと前から俺を好きだった事も、俺を憎んでいる事も、その理由も分かっていたから」

 知っていた? 知っていて、姉と関係を持って、さらには捨てたと言うのだろうか。

「俺も、ずっと好きだった。だけど萌香が」

 姉はずっと以前から、わたしと同じように先輩の事を好きだったらしい。でもたった一つとはいえ年下の先輩に告白する事は、姉のプライドが許さなかったのだろう。ところが、先輩がわたしの事を気にかけていると知って、そのプライドを捨てた。先輩はさすがにわたしの姉という事もあって躊躇したが、それでもいつものようにその他大勢の女の子と同様に扱った。

 そして間もなく訪れた別れ際。姉は笑顔で

「綾香は公洋きみひろの事を絶対に許さないわよ」

と告げ、事実わたしは先輩を憎むようになっていた。

 それがわたしが知らなかった二人の事情だったのだと、そう聞かされてもなお、姉の言動が信じられなかった。姉はそこまで計算の上で、先輩と軽いとしか言いようのない関係を持ったと言うのだろうか。好きになった男を妹に取られる事を潔しとしない、姉のプライドだったのだろうか。

 だとしたら。今までのわたしの気持ちは、知らないうちに姉に仕組まれたシナリオ通りだったのだろうか。

「なに、それ」

 言葉が続かない。姉のそんなプライドなんて、くそくらえだ。わたしはわたし。わたしの心はわたしの物であり、姉にとやかく言われる覚えはない。

「俺は。俺もずっとお前の事、欲しかったから。だから、加減できなかったけれど」

 膝の上に重ねていた手を取られた。

「大事に、したい。いや、する。だから俺を信じろ。信じて、くれ」

 切なげに寄せられた眉根は、嘘を語っているとは思えなかった。むしろ先輩が嘘をつかない事を、わたしは知っている。女の子と付き合う時も別れる時も、先輩は嘘をつくような事はしなかった。

「信じ、たい」

 咄嗟に口をついて出た言葉に、わたし自身が驚いた。

「先輩を、信じたい。だから、信じさせて、ください」

 けれどそれは、紛れもないわたしの本心。ずっと恋焦がれていた先輩を、理由あって憎んだけれど。それでも捨て切れなかった、わたしの心。

「信じさせてやるよ」

 先輩はびっくりしたような顔をして、そしてすぐに笑顔をくれた。わたしがずっと好きだった、泣きたくなるくらいに眩しくてとても綺麗な笑顔だった。



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