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変わらない電車に乗ったはずが行き着いたのはあの世とこの世をつなぐ駅。
交わることない愛おしさや愛が駅に彷徨う。
どうすれば心が通うことが出来るのだろうか・・。
悪酔いをしてしまったつもりはなかった。仕事帰りに、ムードのまったく感じられないバーで、いつもと同じ銘柄の酒をいつもと同じ量飲んだだけなのだ。それなのに今私はこんなにやつれ、胃の中にあるものが喉のすぐそこにまで押しよってきている。つまりとても危険な状態なのだ。
終電のやけに明るい電車の中、イヤホンを首からたらして音量を30に設定した。小さなイヤホンからは繊細なアコーステックギターの音が擦り切れて流れ出ている。ヴォーカルも透明感のあるすばらしい声の持ち主だと思う。顔も私と比べたら申し訳ないほど綺麗で整っている。どれほどすばらしい人生を過ごしているのだろうか。
「まもなく終着地」
ガラガラした声で投げやりに教えてくれた。声の質からしてやる気を微塵も感じさせない、少しでも楽をしようとしているこの声の主はこんな夜遅くまで電車を動かしていることにきっとせいぜいしているのだろう。同じ線路を決められた時間だけ走り同じ景色を見ることに。本当は家に帰って妻のいる所に早く行きたいのに・・いや、彼にはそういう存在はいないのかもしれない。だから夜遅くまで一人か二人のために大きな電車を動かしているのだろう。身寄りもなく、一人暮らしで家に帰っても空っぽな空気しかない。なんてスカスカな人なのだろう。なんて・・・私も、か。
いつの間にか床に散らばった楽譜を拾い上げ、倒れていたカバンの中にしまった。妙に惨めで心細い気持ちになった。楽譜を拾う手は小刻みに震えている。
電車が何かにつかえるように揺れ床の缶コーヒーが横に倒れた。
中からこぼれるカフェインの色。溢れ出す大人のにおい。
ドアの手すりにしがみつき、ガラス窓から少し外を眺めた。そこには夜しかださない街の顔が見えた。家の明かりはほとんどなく、静かに日が昇るのを待ち続けている。
それにしてもどこまで乗り越してしまったのだろう。
見しらぬ光景が目に映る。
私の住んでいる町はもっと看板やホテルの光が溢れているようなところなのに。だいたい、こんな田舎みたいな所はもうないはずだ。都市化が進み、田畑が高層ビルに化している、なかでもこの県はそれが激しくいまどきこんな貧相な場所はあるはずがない。何かが狂いだしてきていることにようやく気づいた。
カバンをしっかり手に持ち、とりあえず電車が止まるのを待つことにした。あまり動き回ることが出来る状態じゃないっていうことは自分でもちゃんとわかっていたし、そういうようなことをする気にもならなかった。いまさら焦ってもしょうがない。どこか知らないところについてもお金はあるから何とかいける。なるようになる。
電車はゆっくりと象のように進みながら止まった。ドアが機械音を立てながら開いて私は滑り落ちるように外に出た。出た瞬間に足をくじいて地面に頬を打ちつけた。12月の地面は冬の孤独さを残酷に教えてくれた。
「どうするかな」
とにかくココが何駅なのか振り向いて向かいの看板を見ようとしたが向こうにはただの暗闇しか存在しなかった。どうやら片道しか通っていないようだ。鞄を握りなおした。片道という事実は私を無限の不安に追いやった。背筋は冷たくなり手は微かに震えているようだ。そういえば子供の頃に迷子になったときもこんな風に震えて座り込んでいた気がする。横をすり抜けていく大人たちの目は私を責めているようだった。この二年後私は人間不信のようなものになった。
震えている右手を左手で暖めながらそれを見つめた。果てしない闇。音もなくただ純な暗闇が何か語りかけようとしているわけでもなく静かに存在を確かにしていた。
「どなたですかな」
左側から声がしたので頭だけ動かしてみてみるとおじいさんがたっていた。古い着物を着た60くらいのおじいさん。ひげが綺麗に整えられてなんだか触ってみたい。
いろいろ聞きたい事は山済みだったのだが、首のところで詰まって声にできなかった。
「まあいすに座ろう」
おじいさんは私の腕を持ち上げ、肩を抱きながらボロボロないすに座らせてくれた。落書きだらけの汚らしいいすだ。
「名前はなんていうんだい」
「須田キリコ」
「キリちゃんだね」
私は完全に子ども扱いされている。このおじいさんには私がそれくらいにしか見えないのだろうか。視線を感じたが目を合わせずじっと地面のほうを向いていた。風は冷たく私の髪をなびかせている。
「ココはどこですか」
おじいさんは難しい顔をしている。知らないのだろうか。それともいいづらいのだろうか。
「知らないのかい」
「はい」私は電車を乗り越してしまったことを伝えた。ついでに自分の住んでいる町の名前も言った。
「そうか。困ったね」
おじいさんには何かわからないが優しいものを持っている。それはそばにいるだけで和める懐かしさのようなものでもある。私のおじいさんはどうだったっけ。忘れてしまった。
「なにか心に引っ掛かるコトとか最近ないかい。とてもさびしいこととか」
さびしいこと。それが聞こえた瞬間に心臓がどきどきしてきた。やめて欲しい。そのことだけはやめて。
口を押さえて微かに震えだした私を見ておじいさんはとても申し訳なさそうに身体をさすってくれた。悪かったねと何度も言った。
「2ヶ月くらい前に知り合いがいなくなったのです」
「そうかい。かなしかっただろう」
悲しいという気持ちは微塵もない、私は裏切られたのだ。私たちはいつも楽しく、彼が笑うと私も笑いたくなり、私が笑うと彼もうれしそうに笑っていた。幸せだったはずだ。あの頃は全てが新鮮で美しく、優しく振舞うことが毎日出来た。クリスマスには約束をした、1年後の約束を。
血まみれで、真っ青になってそれで・・何もいわなくなっていた、あのマンションの中で。何もいってくれなかった。私には手におえないことだったの、頼りなかったの、幼すぎたの。何度も心の中だけで彼に問いかける夜を過ごした。そうやって私は空っぽな幽霊のような存在になってしまった。彼がいなくなったあの日に私もいなくなってしまったのだ。だが、たとえ幽霊になっても私は完全に空気に溶け込むことは出来なかった。
彼がいなくなっても世界は一秒という一時間という一日という、目覚めという眠りというものを記し続ける。これに果てはない。私たちはたとえ知識の果実を食べてもそれが木になっている以上完全なるモノにはなれない。そのおかげでのんきに生きていられるのだが。その代償に身体というものを手に入れた。肉体は常に動くことを望み成長し後退してゆく。そんな中私には存在を記すものが存在し、あいまいではあるが生きているのだ。私でない後退したなにかが。つまり私は完全なる無にはなれないのだ。死んだって何をしたって。
「でも、もういいんです。それはただそこで起こったことなんです。彼がいなくなっても私はやっていけているし、楽しんで生活していますよ。」
正真正銘の真実だ。
「いや。それがね、ここにいるってことはね、キリちゃんがその人のことに対して何かしらの心残りがあるということなのだよ」
「どういう意味なんですか。」
おじいさんの方をじっと見つめているとその距離がわからなくなっていることに気づいた。いったいどれくらい近づいたら身体に触れるのか、よくわからない。
「ここはね、あの世の駅みたいなところなんだ。でも安心して、キリちゃんは死んだわけではないから。死んだ人への強い思いがいつの間にか人をこの駅に連れてくるんだよ。そして相手に会うことが出来る。話すことだってできるよ」
いきなり現実離れした話しを聞かされたが嘘のようにも思えなかった。これはきっと現実で私はいまあの世の駅に着いた。そこでおじいさんに会った。わかった。それで十分。でも何でここに彼がいるとわかるんだろう。彼がこんなところにいるはずがない。
「会いたいかい?」
「会いたいです」
おじいさんは立ち上がり、では待つことだといって歩いていった。その後姿をずっと見ていたのにいつの間にか見失ってしまった。おじいさんは死んでいるのだろう。じゃあ誰かがおじいさんをここにつれてきたんだ。奥さんか家族かな。
待つことだといわれ、何分かそのままの体勢で座っていたが、何か暇だったので駅の中を歩き回ってみた。駅には売店はなかったが、駅の外には桜が咲いていた。川沿いになん本もある桜の木には、季節はずれの桜の花が淡いピンク色を映しながら舞い落ちていた。そうか、あの世だから季節も関係ないんだ。でも、さっき吹いていた風はとても冷たかった。
散ってゆく桜を眺めながら歌を歌った。なんとなく無音の空間を打ち破ってやりたいと思ったから。
「Your sunny day Cay the day 口ずさんで 何だかほら〜軽くなるよ 探して 夢見て答えだして 時々um でも大丈夫 選んだのは私だもの〜」
このフレーズは悲しくなってしまう。選んだのは私。それはわかりたくもない現実なのだ。逃げようとしても身体の一部はすでに掴まれている。だから、認めるしかない。
さっきいたところから人が来た。足音が今度は、しっかりと聞こえた。
「あなたも待っているんですか」
その男はそういってきた。体格のいい、ラグビーでもやっていそうな身体だ。
「はい」
「お互い待つ身はつらいですね」話すときはしっかりと眼を見る人だ。私からまったく離そうとしない。「僕は、もうどれくらい待ったかわからなくなるほど待ち続けているんです。一人の人のために、自分でも最近何でここにいるのかわからなくなってきているんです」
「会いたいからじゃないんですか」
会話のテンポを崩され、目を落とす彼の行動はぼんやりしている。
「確かにそうです。最初はそうでした。会いたくて話したくて、どうしても言いたい事があってココに導かれたはずなんです。けれど、まったく姿も見せない。だから半分諦めているのかもしれませんね。中途半端に思っているから、隠れて僕の姿を見て笑っているのでしょう」
微笑んでいたが力は、まったく入っていなかった。引き伸ばされた笑顔の奥にはとんでもないものが溢れているのだろう。
「信じ続けることは、難しいですからね」
「信じることに疲れてしまいましたよ」
彼はとても素敵な人だ。全体からして悪くない。優しいだろうし、沈黙が流れたらすぐに何かしらの話をしだすだろう。悲しいときは抱きしめるような人だろう。でも、そういう優しさは痛々しいだけ。昔、近くにあった絶望に真っ逆さまに落ちたとき、抱きしめられた。そしてその後、飼い犬の傍に行ってみた。こういう時名犬と呼ばれる犬ならば涙を舐め、ずっと傍にいるのだろうがうちの犬は違っていた。少し目を合わせて迷惑そうにお風呂場へ寝に行った。何でだろうか、私にはそっちのほうがしっくり来た。
「あの。私が来たとき、何処にいましたか」
彼は少し考えているように目を横にやって。「君が来たとき?そこの桜を見に行っていたんだ。この下に降りられることがまえわかってね。暇になったら下に降りて、桜並木を歩くんだ。とても気持ちがいいよ」
「そういうのいいですね」
私も降りてみようかな。あの人は、まだこなさそうだし。
「君は誰を待っているの」
待っているという表現は好きだ。そこには必ず硬い行動の理由が伴われるから。
「知り合いを待っているんです」
「恋人とか」
「近からず遠からずっという様な感じです」
「ふ〜ん。僕は親父を待っているんだ」
「そうですか」
なんかよくわからないが、私と彼は一緒にいることになった。彼と会って話し相手が出来たから少しばかり気が晴れた。年も私と似たようなものだろう。
「降りてみますか」
彼が手を伸ばした。大きく、指の長い手。彼の手に似ているように見えてくる。私は、気づかないふりをしてそのままそばに行った。
「君は寂しいんだろ」
「そうかもしれない」
「新しく恋人を見つければいい」
子供のようなことを言う。恐ろしい子供のような、昔の自分のような。
「そう簡単なものじゃないんですよ。いろいろあるから」
彼は私の答えに満足していないようだ。もっと奥のことを聞きたいんだろう。だけど、話す気なんて勿論毛頭ない。他の人に何か言うのが好きじゃない。理由は特にないけど。
「親父は僕のことが大嫌いだった。きっと今も嫌われているだろう」
話さないことを悟ったのか、彼から話しはじめた。夜の川には桜の花びらが、綺麗な鱗のようになっている。
「なのに会いたいの?」
「仕方がないんだ。親父をココに追いやったのは僕だから」
桜の花びらが一気に散っていった。彼のさびしそうな目。捨てられた犬のような感じ。
私はアレックスの顔を思い出した。白く、目を閉じている。
一通り桜に染まって私たちはまた駅に戻った。駅はまったく何一つ変わらずそこに存在している。肩がどっと重く感じた。
「じゃあ。僕は少し行くよ」
「どこに?」
「ちょっと向こうへ」
彼は両手をズボンに突っ込み、スタスタと歩いていった。彼の背中を見つめているとまたスッと消えていった。生きている人も消えることが出来るらしい。私にも出来るのだろうか。教えてもらえばよかったと後悔しつつもベンチに座り、上を見上げてみた。夜の空には、星がいくつか気まぐれに浮かんでいる。1,2,3,4,5,6,7,8,・・。
「早く出てきてよ」
眠たくなってきた。早く家に帰って自分の布団の中布団に包まって何処かの世界に行きたい。静かで、でも息吹を感じるような。太陽さえも見えないくらいの・・深海。魚もなにも生きることを許されない領域。誰もいない何の言葉も囁かない。目障りな作られたものは存在しない。
そういえば酔っていたはずなのにいつの間にか吐き気も頭痛もしなくなっていた。あんなに泥酔していたのに、おじいさんのおかげか、彼のおかげか、桜のおかげかな。
「あ・・」
名前を聞いていなかった。どうして聞かなかったのだろう。
何処かの駅で寝る男のように、ベンチに横になり目を押さえた。周りは当たり前に真っ暗になり、からだの神経がひとつひとつ切れて言っているかのように、何も感じなくなっていく。限りなく無に近く私はなる。
真っ白い壁が見える。横から風が吹いているようだ。他にもふんわりと心地よく香る風の匂い、温かい日差し。私は何をやっているのだろう。身体を、左右に動かそうとしても頭で指示が止まって指先すらも動かすことが出来ない。
目も正面で固定されているらしい。
「キリコ」
あの人の声が聞こえている。私の心には怒りが溢れ出し硬い壁を作り出した。
「今日の風は気持ちいいな。そう思うだろ」
消えて。私が知らないところまで飛んでいってしまえばいい。今更何をしに来たの?話すことなんて何もない、私はあなたに裏切られたのに。許すつもりはまったくないよ。
「お前にはもうわからないのか」
笑いながらいつも聞いていた声に聞き入ってしまったがはっと気を引き締めて目を閉じた。どうやらまぶただけは動けるみたいだ。じゅっと瞑って彼がいなくなることを願った。もういいから私にはあなた必要ない。今までどおり、少しだけ変わるかもしれないけど明後日になったら、隣の犬に優しく微笑むことだってできるようになる。友達とだって冗談を言って笑える。もういいの。あなたはあなたで頑張ればいい。そう選んだんでしょ。
「ココに居たいんだ。君のそばで何かのために」
風は私の前を吹き抜けどこか遠くのほうへ行った。
そして私は帰ってきた。
寝そべったまま今のこの状態に自分の全てを正常にしようとした。さっき見たものを一つ一つ思い出し夜の空と比べて言い聞かせた。ここにはそんなに居られない。
身体を起こしベンチにきちんと足を揃え座っているとゆっくりとおじいさんの存在を感じた。このまま何もしゃべらなくても気まずくはない、そう思える。
「何処まで行ってきたんだい」線路に桜が舞い込んできた。
「だいぶ遠いところまで行ってしまったんです。遠くに」
おじいさんは優しく、頭に手を当ててゆっくりなぜてくれた。大きな手は恐ろしく懐かしいものだ。着物から匂う和室の匂い、膝のあたりについているシミ。
もう少しだけここに居たい。
「ワシはもう少し待つけど、どうする?」
「待つ」
「そうか。ワシはね、確認しときたいことがあるんだよ。昔につらい思いをさせてしまった人が居てね。息子なのだが、一人さびしい思いをさせてしまった。ワシはすごい過ちを犯してしまった」
「うらまれていると思っているの」
「そうではない、とはいえないね。うらまれていても当然だからいいんだよ。ただ、どれくらい背が高くなったか見てみたくてね」
「親の楽しみね」
「そうだよ」ぼったりとした頬にしわをたくさん作って笑った。
彼はいったい何処に居るんだろうか。お父さんが待っていてくれたのに。
「おじいさん。私会ったよ背の高い男の人。きっと息子さんだよ」
驚くだろうと思っていたのにうれしそうな表情ひとつもしないで、ホームの向こうを見つめていた。
「ありがとう、けれど会えないらしいんだよ。そういうこともあると前、聞いたことがあるからね。もう無理なのかもしれない恭一に会うことは」
「そう」
うつむいているとタンポポが咲いているのがわかった。ベンチの足に小さい命を燃やしている。黄色い花びらは大きく葉は少し虫に食われている。どう見ても綺麗なものではない。この花はココに咲くためだけに居るのだろう。着飾る理由もないし、大きくなる必要もない。確かにタンポポはそんな植物だ。
顔を上げるとおじいさんは居なくなっていた。
立ち上がって電車を降りたところまで戻った。歩いている途中あの彼が出てきてすれ違った。恭一君。
「恭一君。何処行ってたの?」
振り返った彼の眼は深く沈みこんでいた。古い井戸を覗き込んだときのようだ。
「だいぶ遠くまでだよ」
「お父さん、さっき会ったよ」
恭一君の顔はさっきのおじいさんの顔そっくり映したようだ。
「でも僕は会うことは出来ないよ」
親が子に似ているというか、子が親に似たのかまったく同じような親子だ。似たもの同士だとやはり欠けているところを補うことが出来ないのだろうか。
「そう」
恭一君は、私を通り越し大きな背中を吊り下げたままさっきまで座っていたベンチのほうへ行った。疲れたサラリーマンのように足をどたっとおろし膝にひじを置いてうつむいている。私の目には確かに恭一君の隣でおじいさんが空を眺めているのが映った。
待っていたが結局あの人は現れてくれなかった。もしかしたら恭一君のように私のすぐそばに居るのかもしれない。そして彼も私を探しているのかもしれない。でも、私は気づくことが出来ないのだ。だからどうなっていても同じだ。感じることが出来ない、あんなに長い時間そばに居たはずなのに。
いったい何をしてきたのだろう。私たちのあの時間は何のためにそこにあって、何になりたかったのだろうか。永遠に続く自問自答はあの人を汚していくばかり。
暗闇に右のほうから光が差し込んできた。ココに来たときと同じ電車。アズキ色の長い車体。
高いブレーキ音を上げながらゆっくりと止まりドアが開いた。
二度と会わなくなるね。さようなら。
何度も悩み、落ちに落ちた生活から私は今この電車に乗って脱出する。もう全てから抜け出し、ばらばらになった身体をつなぎ合わせていく。破片が見つからないときもあるだろうが気にしていては生きていけない。生きなくてはいけないのだ。私にはその理由があるはずだ。
電車に足を踏み入れ蛍光灯の明かりを全身に浴びた瞬間、背筋に何か押し当てられているようなものを感じた。それは背中を回っているようだ。感じたことのない感覚に驚き電車の中に飛び乗った。後ろを見てみたが誰も居ない。そこには古びたベンチがあるだけ。それだけなのだ。
ドアがゆっくり閉まり空気が遮断され所々つっかえながら電車は走り出した。外を眺めていると、恭一君が一人川沿いに下りていくのが見えた。また見に行くのなら、最後に一緒に行けばよかった。もう少し何かを話すべきだった気もするし。でも、もうこれでいいと思う。そう思うことが正しいのだろう。
駅を通り越し、見る見るうちに住宅地へとかわっていった。平凡な何処でもありそうな町並み。一軒一軒外灯がしっかりと明かりをともしている。きっと幸せな家庭で同じような趣味を持ち、笑いながら会話をし、冗談を言い合うのだろう。警察なんていうものには無縁の家族。
いすに座り少しだけ目を閉じた。出来るだけ何も考えないように楽な体制で。
「ねえ、何やってんの」
声が聞こえてきたので目を開け、横を見るとカオが座っていた。高校時代にきた制服を綺麗に着こなし分厚い単行本を手に持っている。肩より少し長めのショートヘアーでメガネをかけて、まさにあの頃とまったく同じ姿だ。ただ、違うといえば彼女の顔や身長があの頃と違う今のものだ、いうことだけだ。
「カオ、なんでここにいるの?」
カオはまったく本から目を離そうとしない。ページには柳生とか転生とかが連なっている。部活から帰る電車の中でこの光景を何度眺めただろうか。二人が疲れきって話さなくなると彼女は決まって時代物の単行本を出して読む。時々横から覗いたこともあったが古典的な文章で私には2分も持ちそうにないなと思ったこともあった。
彼女は本だけではなく時代村のような所にも家族で行って、よくその写真を見せてくれた。サングラスをかけて笑っているお母さん、カオの隣に居る妹、笑ってしまいそうな顔で映っているお父さん、そしてカオ。どの写真も笑顔笑顔そして笑顔といった感じの仕上がりになっていた。その写真たちを見ているとまるで潮が満ちてきているようにゆっくりと私を海の中に沈めていった。電車から降り別れた後も海の底で音もなく、周りのものがゆらゆら揺れている感じを覚えた。家に着き自分の部屋に入る頃には潮は引いて、身体は完全に地上の空気に触れている。砂浜に一人取り残され身体に海の匂いが染み付いてしまった私は、海の匂いの深さを考えながら立ちすくむことしか出来ない。そしてまた夜が来る。
カオはどんなに待っても私に話しかけようともしないし本を読むのをやめようともしない。目は確実に文字を拾い上げていっている。
目の前の窓には疲れた顔をした自分と下を向いて本を読んでいるカオが居る。その奥には夜の街が流れている。
私はもう帰ることが出来ないかもしれない。このままカオの隣でこの街を眺め存在し続けなければならなくなったらどうしよう。そうなったら私の存在理由がますますわからなくなってしまう。いや、そもそも私に存在の理由があるのだろうか。別に何の役になっているわけでもない。誰からも目をつけられてないし、前向きでもない。希望を与えることも出来ないしやすらぎを与えることも出来やしない。かえって疲れさせるばかりだろう。
「行くよ」
立ち上がってカオの膝辺りに言った。とにかく私はここにとどまっていてはいけない。そろそろ潮時だ。海の中から出る時期なのだ。
さっきまで何を言っても見向きもしなかったカオが突然驚いた表情を浮かべた。心配そうに不安そうに。声にはならない言葉が私の奥に染み込んでくる。
振り返り電車の中を真っ直ぐ進んでいった。一番前に行くことだけを考え重いドアを開け続けた。気のせいだろうか前に進むほどドアの重さが増していっているようだ。両手に力を入れどうにかあけていった。
26回目にようやく先頭についた。スーンと抜ける車内の奥に運転手が線路の先を見つめている。そのまま歩いて運転手と一番近い席に座った。みてみると女の人らしい。弱いパーマをかけた髪。顔は見えないがガラス窓を通して哀愁を帯びた風が吹き込んできているようだ。静かにさびしい。そういうような感じ。
窓を切り裂くように雨が降ってきた。音のない雨が窓に斜線を引き電車のワイパーを動かす。
雨の中の電車は憂鬱になる。
心がどこか遠くに行ってしまったように。目線が下がり、いらないことばかり考えようとしてしまう。だから雨が降ったときは逃げるように電車から降りる。外に出たほうが気持ちも全てどこかに行ってくれる。
座席に横になり、また静かに目をつぶった。誰も居ないもの、こうやって一人で寝たって怒る人は居ない。運転手が居たけど、きっとあの人は気づきもしない。
息を吐き、気持ちを静めると簡単にスイッチは切れた。
ザーザーザーザーザー
雨の匂い。起きるとドアが開いて雨が差し込んできている。頭に少しだけ湿った感覚がある。
なにか夢を見た気がする。どんな夢だったかまったく覚えていないが、私の中の全てが流されてしまったように空っぽになっている。大切な夢のような気がするのにその破片さえも見つけ出すことが出来ない。だけど、なんだか薄い水色のような夢だったような・・。
駅に降りた。前に居たところとは違って屋根がない廃駅のようだ。冷たい雨が身体をぬらす。外から運転手を見ると横顔が見えた。真っ直ぐ前を見据えている。運転器具の上には写真たてやボロボロになっている手帳が置いてあるみたい。
身体はすでにずぶ濡れ状態で服が色あせている。電車はそのまま出発せずにここにいるようだ。動き出すという空気を感じられない。
ここに何があるのだろうか・・、とりあえず歩き回ることにした。歩いていると考えがまとまりやすい。私の場合だが、何か不安で胸の底からは痛くなったときいつもの道より遠回する。それはテレビを見ているときに何となく冷蔵庫を覗きに行くような感じだ。その行動には意思はほとんどというほど入っていない。身体が自然と動き出す。
遠回して、歩き回って、彷徨っているのかもしれない、冷蔵庫とテレビの間の距離を。
端まで歩いていると下に降りる階段のようなものがあった。足元を確かめながら黒い地面に降りた。いちよう電車が動く様子がないか振り向いてみた。アズキ色の電車は彼女と一緒に止まっているようだ。雨の中寂しそうに濡れている。階段から離れ線路の上に立った。電車のスーンとした光を全身に浴びながら線路をじっと見つめた。足元の線路から徐徐に頭を上げていって暗闇へと延びている線路。どこか遠くに行きそうな予感を残しそう だ。少しだけうれしいような気もするけどやっぱり寂しいかな。
線路の上を大またで歩く。雨はやむことを知らないらしい、大粒で雨の匂いをたくさん含んでいる。線路沿いに咲いている紫陽花は綺麗に濡れて笑っているようだ。きっと鈴のような笑い声で。
「時間ですよ」
振り向くと運転手が立っている。彼女の髪は柔らかそうに風に揺られている。雨は確かに彼女の周りにも降っているはずだ、なのに水気のない服を硬くではないが丁寧に着こなしている。
「何の時間ですか」運転手の目を見たがすぐにそらされた。「私にはよくわからないのです」
「電車の発車時間です」
「この・・電車に乗ったら何処に行くのですか。教えてください」
「行き先は・・・・」
雨で声が潰され聞き取ることが出来ない。画面が乱れた砂嵐状態のテレビの前に座っているときのようだ。物悲しい。止めるタイミングがわからず、わけがわからないまま何十分も見てしまう。昔そのことを友達に話したらバカにされた。へんな人だ、と。
電車の中に戻るとすぐにドアが閉まり出発した。雨はいつの間にかやんで微かにだが光が差し込んできているようだ。
運転席の窓が少しだけ開いている。彼女はまたじっと前を向いて電車が走るその先その先を見守っているようだ。
「私、すごい雨女なんです。子供の頃も学校を出るとごろつきだして、帰り道に橋があったんですけどその頃にはすごく荒れて。かさの意味がなくて仕方がなくそのまま走りました。そうしていると不思議に面白くなってきて、よく笑っていました」
電車の中一人ずぶ濡れになって恥ずかしいはずなのになぜか晴れ晴れとした気持ちになっていた。あの頃と同じ状態の自分。一人だけずぶ濡れでいる。
今まで運転席にいるときは微動だにしなかった彼女が、席を立ちドアを開け私の前に席に座った。運転席には綺麗な懐中時計が置かれている。
「その気持ちわかる気がします」馬のような優しい目をしていると思う。長いまつげにしっとりとした瞳。視線が何処をさしているのかわからなくなる。
「濡れると晴れ晴れしますよね」
「そんなことがあったんですか?」
「ええ。私は晴れ女なんですけどね、一度だけ雨の中を走ったときがありました。誘われたんです、雨に。走って息が切れるほど走って、すると駅に着いていたんです」
少しずつ晴れだした空に光が差し込んでくる。雲の隙間から、まるで海の中にいるように何本もの光が地上を照らし哀れんでいるかのようだ。私は静かに息を吸った。
「居なくなってしまったんです。何処を探しても、一緒に行っていた公園とか本屋さんに行っても何処にもいないんです。もう・・何もなくなってしまって。私は・・彼に何もしてあげられなかった自分が、誰よりも醜く思える、それと同様に彼さえも」
息苦しくなって今にも泣いてしまいそうだ。いっそ泣いてしまったほうが楽なのかもしれない。泣いてしまおう、子供のように残酷に。
「綺麗に・・晴れてきましたね」
彼女は窓の方に顔を向けながらつぶやくように言った。
「あなたもひどい人ですね」私はため息をついて、笑うしかなかった
駅に着いた。
今度の駅は特に何にも変わっていないように思える。そこら辺にある掃除もまあまあな普通の駅。電車が一時間に8本ぐらい通っていそうな。
ドアが開き降りるとすぐにガタガタと音を立てて閉まった。
周りを見渡しながら歩いてゆく。周りは夕日が沈む前、ちょうど犬の散歩に出る頃ぐらいに明るい。
駅にお店がある。今までにはなかったものだ。本屋さんに小さなレストラン、売店が並んでいる。どの店にも人のいる感じはしない。
後ろを振り向き電車を見た。電車は消えないでそこにあるので気が楽になった。そのまま本屋のほうへ行く。ドアを開け中を見渡してみたが本は一冊も入っていないで新聞ばかりが散らばっている。嫌いな新聞のなんともいえない匂いが充満して吐き気がしそうだ。ドアのほうを振り向くと床に誰かがうずくまっている。ああ・・あの時見た血だらけの赤い血の・・。
「 」
声にもならない叫び声をあげ腰を抜かしてしまった。見ないように何度も目を閉じていても目が勝手に開いてしまう。半分だけ開けられた目は淀んで零れ落ちそうになって。
どんどん呼吸が速くなってきて吸いたくもない新聞と血の匂いが身体中の血の中に溶け込まれているようだ。どうして、こんなものを見せるの。
「誰?」
新聞だらけの床に手を突き聞いてみた。店の会計の下にうずくまっているその人は何も言わず血だけが絶え間なく溢れてきている。
「俺の名前さえも忘れてしまったのか?」
「いや、しゃべらないで」
耳を押さえると手が真っ赤なのに気がついた。ぬるぬると生暖かい。
「なんで、どうしてなの?」
手を服に押し付けて手の血をふき取ってその人のほうを見上げると、その人のほうも顔を上げ目を合わせてきた。
「俺のこと忘れてないだろ?」
知らない。知らない。知るはずがない。いったいこんな人といつ会ったことがあるというのだ。知らない。
「俺だよ、惣一」
「違う。あんたが惣一のはずがない。違うからどっかいって」
「どうしてわからないんだ」
その人の顔はさっきよりも人間らしくなってきた。飛び出しそうになっていた目はいつの間にか収まって、綺麗になっている。赤く染まった目に悲しそうに眉を下げる。どこかで見た気がする。
「俺はキリを忘れたことはない。何処にいてもどうしていてもキリを思っているし、好きだ」
惣一。
「思い出してくれ」
惣一はここに居る。優しく聞こえたいつもの声が、また私のことを呼んでいる。彼はココに居たんだ。そういえば・・・。
「キリ、戻ってきてくれ」「キリがいなきゃ駄目なんだ」
彼の顔が、声が、私に届くけどなんとも思えない。疲れてしまったのかも知れない。そういえば身体が泥のように重い。何かに縛り付けられているようだ。
「いつまでもまっているからな」
待っているんだ。こう思うと待っていられるのは辛い。
彼は私の目の前に来た。恭一君が消えたときと同じように、風にかき消されるように消え、現れた時はずっと前からそこにいたようにそこにいた。
彼の足が目線にある。黒いスーツのズボン。彼の足を両手で抱きしめた。頭を足と足の間につけて目をつぶった。
「惣一だったんだ。惣一だったんだね」
筋肉質な足を抱きしめていると彼の手が優しく私の頭を撫でた。どうしてだろう、なんとも思えない。おじいさんの手はあんなに優しく大きく感じたのに。
「俺は弱い人間だ」
彼の足は風のように私の手の中からなくなった。少し笑った後電車の元へ向かった。
「彼は弱い人間らしいんです。知らなかった。私が必要なんですって。初めて聞いた。私がいなきゃ駄目なんだって。そんなこと気づきもしなかった」
「人間は悲しい生き物です。全てを伝えることなんて到底出来ないんです。選び抜かれた、その場に似合だろうと思った言葉や心しか伝えることが出来ないんです。諦めが肝心なんですよ。こういうことは」
初めて彼女の話を聞いたような気がする。しんっと正しい言葉だ。
「諦める。それでいいの?それじゃあ、あまりにも辛すぎるよ」
「辛いことなんてすぐに飛び去っていくものです。悲しいコトだって。その場限りのものなんです。だから何も恐れることはないんですよ」
風のように飛び去っていく心。飛び交う風の中私は生きていくのか。惣一は死んでいたんだ。このこともいつか飛び去ってしまう。カオのことも、おじいさんのことも、恭一君のこともアレックスのことも。
電車の前にはトンネルがだんだん近づいてきている。暗くて長そうなトンネル、土臭そうなトンネル。
私は耳を澄ました。電車の音は聞こえず、綺麗な心地のいい風鈴の音が聞こえる。妖精が笑っているかのような小さな音。彼女は右手にはめられたブレスレッドを回しながら空を見上げている。
そして私は青く広がる空に呟いた。
「風が飛び去らないように」
白いカーテンが気持ちよくなびいている。花瓶の花はどこか居心地悪そうに咲いている。
彼女が白い顔をしてやっぱり眠っている。何もしてやることが出来なかった。
「おはようキリコ」
包帯で巻かれた腕を何度も壊さないように撫でた。頬を撫で、頭を撫でどうにか気をおさめようとしてみた。
「おはようございます」
看護婦は俺の顔を見るなり爽やかに微笑んだ。
「今日もいい風ですね」
流れすぎていく風。彼女の髪は微かに動く。息遣いしているかのようだ。
「飛ばない風があればいいのにな」
読んでくださってありがとうございました。
よろしければ感想を少しでもいいので送っていただけたら嬉しいです。