赤鬼
「……なにをしている?」
地を這うような、低い声。
政吉のものではない。
弥政のものでもない。
たった一言だけで、全身が粟立つような声。
鬼のようだと思った母の顔も、小百合の顔も、恐怖のあまり真っ青になる。
小百合は恐る恐る、声のする方を振り返った。
「泣いているのか?」
気遣うような言葉すら、小百合の恐怖を煽る。
振り向くと、そこには人のようだが人とは明らかに違う男が立っていた。
鮮血のような赤いざんばら髪、金色の瞳。
一見牙のように長い八重歯と、長い爪。
服は黒の着流しを着ている。
精悍で美しい顔立ちだが、それが逆に小百合の恐怖を刺激した。
そしてなにより目を引くのは、頭の上の、白く長い2本角。
それはまさしく、鬼だ。
母とは比べものにならない恐怖。
と同時に、小百合は首のアザが疼いたのを感じた。
「あ……」
(この、鬼は……)
今日まで、小百合は自身に呪いをかけた鬼の顔をぼんやりとしか覚えていなかった。
だが、目の前に現れたひとりの鬼の顔が、彼女の記憶の一部と繋がる。
小百合は確信した。この赤鬼こそ、自分に呪いをかけた鬼だ。
「あ……あ……」
恐怖のあまり、小百合は声が出ない。
それは桃々香も同じらしく、腰が抜けたのかその場で崩れ落ち、恐怖に顔を歪ませている。
赤鬼は桃々香の顔は一切も見ず、小百合の顔だけを見て、不思議そうに首を傾げた。
「おや、我の顔が分からぬか? たった10年しか経っておらぬというのに」
「わ、わか、り……」
『分かります』と口を動かしてみるも、喉に絡まったかのように声が出ない。
すると赤鬼は眉尻を下げ、まるで憐れむような表情になった。
「可哀想に。声が出ないのだな? それほど辛い思いをしたのか。すまなかった、もっと早く迎えに来るべきだったな」
赤鬼の声は彼女を労っているかのように優しいが、小百合には偽りの姿に思えてならない。
そうして油断させて、惑わせて、人を喰うのだ。
そんな物語を、子どもの頃何度も読み聞かされたことがある。
(逃げなきゃ……)
小百合が震える身体を動かそうとしたその時、誰かに肩を強く掴まれた。
その誰かは、恐怖で裏返った声で叫ぶ。
「そ、そうよ! さぁ、早くこれを食べて、ここから去りなさい!」
それは、桃々香の声だった。
先ほどまで小百合と同じく恐怖で動けなかったはずの桃々香は、爪が食い込むほどの力で娘の肩を掴み、赤鬼にグイグイ押し付けようとしている。
「い、嫌っ……」
「お黙り! 鬼子のお前を今日まで育ててやったんだ。その恩を返そうとは思わないの!?」
抵抗しようとする小百合の声を、桃々香の怒号がかき消す。
『育ててもらった恩を返せ』という言葉は、小百合の心を縛る呪いのようになって、彼女の動きを止めた。
少し間をおいて、赤鬼が静かに手を伸ばしてくる。
(あぁ……もう、駄目だ)
諦めて、そっと目を閉じる。
――願わくば、痛みが少ないように、ひと思いに……。
「きゃあ!!」
途端、桃々香の悲鳴で小百合は我に返った。
何事かと恐る恐る目を開く。
小百合に向けたと思われていた赤鬼の手は、桃々香の頭を掴んで持ち上げていた。
小百合はギョッと目を見開く。
桃々香は地面から離れた足で赤鬼の腹を蹴り、頭を掴む赤鬼の手を引っ掻いて全力で抵抗する。
が、赤鬼の体は、まるで大木のようにビクともしない。
「痛い痛い! 離せ化け物! はな……」
「黙れ」
桃々香は赤鬼の一言でピタッと動きを止め、ヒュッと息を呑む。
ドスの効いた赤鬼の声は、小百合の心臓をも鷲掴みにする冷たさだった。
「人間如きが、我を意のままにできるとでも? 身の程を弁えろ」
「ひっ」
獣のような赤鬼の瞳に睨めつけられて、桃々香は目に涙を滲ませる。
赤鬼はしばらく桃々香の目をジッと見つめると、なにかに納得するように「ほう」と声を漏らした。
「貴様、我が鬼子に随分と手荒な真似をしてくれたようだな」
心を読んだような鬼の言葉に、桃々香の身体が大きくビクッと震える。
「あ、あ、れは、しつけ……で」
言葉を詰まらせながら、桃々香は反論のような言葉を零す。
すると、バタバタと屋敷の正面側からこちらに近付く数名の足音がした。
小百合が音のする方に目をやると、政吉、弥政、女中頭が駆け寄ってくるのが見える。
赤鬼は彼らの方角には一切目を向けず、ただ桃々香だけを冷たい目で睨みつけて不気味に笑った。
「しつけ? しつけときたか。火傷を負わせ、真冬の蔵に閉じ込め、あまつさえ鬼に我が子を差し出す行為が? 笑わせる」
図星を突かれたように、桃々香の身体はビクッと震える。
赤鬼の言葉は、最後のものを除けば、小百合がこの10年で受け続けてきた暴力のほんの一部。
桃々香はなにも言い返せないどころか、息もまともに吸えていないようだった。
庭に駆けつけた政吉たちは、赤鬼の姿を確かめるとその場に立ち止まる。
「あれが、鬼……」
呟く政吉。
臆病者の弥政は恐怖のあまり顔面蒼白になり、言葉にならない悲鳴を上げながら元の道を一目散に引き返していった。
赤鬼は弥政の悲鳴に気付いたのか、政吉たちをチラッと見て再び不気味に笑う。
「……あぁ、この女の愚行を黙って見ていた者たちか。まったく人間とは実に愚かな生き物だ。我が鬼子を可愛がってくれたお礼に、全て焼き払ってくれようか」
「ひぃぃっ!!」
女中頭が悲鳴をあげ、政吉が顔を青くする。
桃々香はもはや気絶寸前だ。
今にもこの場の全員を殺さんとする程の殺気に、誰ひとり動くことができない。
(駄目……!)
小百合は全身に力を入れ、赤鬼に手を伸ばした。
本当はその体を押し倒したかったのだが、足に力が入らず、着物の裾にしがみつくような体勢になる。
「む?」
小百合の行動に、赤鬼は不思議そうな声を上げた。
殺されるかもしれない。
そんな恐怖が小百合の心を支配したが、それでも必死に声を絞り出す。
「やめ、て、下さい! ころさ、ないで……っ」
口に出してから、小百合はほんの少し後悔する。
生意気なことを言ったから、きっと殺される。
だがそれでも、小百合は彼らを殺されたくなかったのだ。
「……はぁ」
呆れるような赤鬼のため息が降ってくる。小百合はビクッと身体を震わせた。
赤鬼の気分を害してしまった。
やはり、殺される。
死を覚悟したその時、小百合の隣でドサッとなにかが落ちる音がする。
それは、泡を吹いて倒れる桃々香だった。
赤鬼はその場に膝を折ると、小百合の頭にポン、と手を乗せる。
「まったく、そなたは相変わらずのお人好しだな」
呆れるような、しかし慈しむような優しい声。
あまりに予想外な行動に、小百合は恐怖が吹き飛ぶほど困惑した。
(この鬼は、私を食べに来たんじゃないの?)
頭を撫でる手は太陽のように温かく、心地よい。
何故かわずかに、既視感のようなものを感じる。
ずっと昔、誰かにこうして頭を撫でてもらったような。
「心配するな。我は10年前の約束通り、そなたを迎えに来ただけだ。他の人間に興味はない」
「……やく、そく?」
赤鬼の言葉に、小百合はわずかな既視感も忘れて赤鬼の顔を見上げた。
赤鬼は、先ほどのような不気味な笑顔ではなく、優しい笑みを浮かべている。
小百合には、赤鬼の言葉の意味が分からなかった。
赤鬼はそんな小百合の様子に気付いたのか、不思議そうな顔をして彼女の頭から手を離す。
「む? 覚えていないのか? 我のことは覚えているであろう?」
「……私を呪った、赤鬼、様」
「うむ、間違ってはおらぬがな。……どうやら本当に忘れてしまっているらしい」
そう言うと、赤鬼は少し寂しそうな顔をした。
小百合は、人ならざる者が人のように表情をコロコロと変えるのが心底不思議で、その様子をただジッと見つめる。
赤鬼は少しするとまた表情を変え、あっけらかんとした顔になった。
「ま、いいか。約束は約束だ」
赤鬼は手を伸ばし、小百合を横抱きした。
突然抱き上げられ、小百合は「きゃっ」と小さく悲鳴を上げたが、安定感のある赤鬼の体躯に、驚愕と少しの恐怖はすぐに消える。
赤鬼は腕の中の小百合に顔を近づけると、少年のように満面の笑みを浮かべた。
「約束通り、我はそなたを娶るぞ」
次回の投稿は、10月9日(金)18:00頃です。




