いらない
「お前を尼寺に送ろうと思う」
「……え?」
驚きのあまり、思わず政吉の顔を見る。
父は変わらず書き物をしていて、チラリとも娘の顔を見ていない。
尼寺。それは尼僧が住む寺院。
駆け込み寺としての役割があった昔の尼寺と違い、今の尼僧は資格が必要だ。
だが、無資格の尼僧も存在する。
その多くは教育を受ける資金のない貧しい娘や、実家に捨てられた娘たち。
無資格の尼僧は、正規の尼とは違い過酷な肉体労働を強いられる。
父は、そんな場所へ小百合を送ろうとしているのだ。
その言葉の意味するところを理解できず呆然とする小百合に、政吉は表情を一切変えずに言葉を続けた。
「……な、ぜ」
「親の責任として18歳までは置いてやったが、鬼子のお前をこれ以上この家にはおけん。それに、聞いた話だが、鬼子は子を成すことが出来ないらしい」
小百合は思わず息を呑む。
そんなことは初耳だった。
鬼についての伝承は多いが、鬼子についてはあまり記録が残されていない。
故に、風の噂程度の話ばかりが飛び交っている。
もちろんただの噂に、根拠も物証もない。
だが最悪なことに、その話をそのまま鵜呑みにしてしまう人間は多いのだ。
小百合からすれば、たまったものではない。
(そんな、噂、だけで?)
父の言葉が理解できないでいる小百合に、桃々香が小馬鹿にするような笑みを浮かべる。
「分からないの? お前はもう、うちにはいらないの」
母の声が、冷たく小百合の心に突き刺さる。
ようやく厄介払いができる、とでも言いたげに、母はクスクスと笑った。
絶望に歪む小百合の顔は、見えていないらしい。
「……いら、ない?」
「鬼子というだけでも嫁の貰い手がないのだから、今更なんの問題もないでしょう? むしろ引き取り先を用意しておいただけでも感謝してほしいくらいだわ」
「……もともと10年前から決めていた。今更お前の意見など聞かん」
母の言葉も、父の言葉も、もはや小百合の耳には届いていなかった。
母から向けられた『いらない』の一言が、小百合の心に繰り返し響いていたからだ。
(……いらない。いら、ない……? 『いらない』って、なんだっけ。えっと……)
何度心の中で呟いてみても、意味がつながらない。
知っている言葉のはずなのに、頭が理解することを拒否している。
呆然と立ち尽くす小百合、嘲笑する桃々香、我関せずの弥政、淡々と離縁を言い渡す政吉。
――『離縁』……そう、離縁だ。
小百合は今日、この家から追い出されるのだ。
ようやく意味が繋がった途端、小百合は崩れ落ちた。
「どう、して……私は、この家の、娘で……」
「図々しい。お前のような鬼子、この家の娘であるわけがないでしょう? まさか、この家に災いを呼ぶまで離れないつもりなのかい?」
「いいえ、いいえ! お母様、私は……っ」
必死に首を振って否定する。しかし、母は忌々しげに顔を歪ませただけだった。
「穢らわしい。誰か、とっととこれをつまみ出して」
桃々香がそう扉の向こうに声をかけると、使用人の男たちが3人、入ってきた。
1人は、おそらく小百合の荷物と思われる鞄を抱えている。
残りの2人の男は小百合を両脇から抱えると、乱暴に立ち上がらせた。
(どうして……)
現実味のないまま、小百合の心に、暗くて重い感情が蠢く。
それは10年に突如として生まれ、正体のわからないまま育ってきた感情。
自覚するたび、それは大きく膨れ上がっていった。
……どうして、自分がこんな目に遭うのか。
小百合はただ、元の家族に戻ることを期待していた。
そのためなら、母の理不尽な暴力にも、使用人たちの幼稚な嫌がらせにも耐えてきた。
呪いの、せいなのか。
(私がこんな目に遭うのは、呪いのせいなの?)
使用人に引きずられながら、小百合の心で長年燻り続けてきた感情が、その姿を現した。
(……憎い)
そう、これは、憎悪だ。
自分を呪った鬼への、強い憎しみ。家族を壊した鬼への、激しい殺意。
(……殺して、やる……っ)
次の瞬間、大地が震えるような衝撃と共に、屋敷全体が揺れた。
地震とは違う、なにかが衝突したような振動だった。
「……なんだ?」
突然の出来事に、ずっと黙っていた弥政が初めて口を開いた。
ずっと書き物をしていた政吉も手を止めて周囲を警戒し、桃々香も落ち着きなく辺りを見回している。
小百合を抱えていた使用人たちもその手を緩め、不安げな顔をしていた。
そこへ、女中頭が青い顔をして駆け込んでくる。
先ほどまでとは異なり、髪はボサボサで表情は恐怖で歪んでいた。
「旦那様! 大変でございます!」
「……何事だ」
「お、鬼です! 鬼が、屋敷の裏に!!」
「鬼……?」
女中頭の言葉に、政吉は怪訝な顔をした。
弥政が「ありえない」と言葉を漏らすと、まるで現実だと言うように再び屋敷が大きく揺れる。
同時に、なにかが崩れる音と女中たちの悲鳴も聞こえてきた。
半信半疑といった様子だった弥政や政吉の顔色が、一気に青くなる。
そんな中で桃々香は勢いよく立ち上がり、小百合をキッと睨みつけ叫んだ。
「お前! 本当に鬼を呼ぶなんて、この家を潰すつもり!?」
母の剣幕に、小百合は肩をビクッと振るわせた。
「い、いえ。私は呼んでおりません」
必死にそう否定する。
確かに鬼への憎しみを自覚し、「殺してやる」と考えはした。
だが決して、小百合は鬼を呼んでいない。
仮に、鬼へ憎悪を向けることが鬼を呼ぶ行為と同義なのだとしたら、「呼んだ」ということになるのかもしれない。
だが小百合にこの家を潰す考えはないのだ。
しかし、桃々香は小百合の言葉を信じなかった。
「嘘おっしゃい!」
小百合の胸倉を掴むと、そのまま部屋を出てずんずんとどこかへ歩く。
小百合は驚く間もなく引きずられた。
「あ、あの……どちらへ?」
必死に声を絞り出して尋ねると、桃々香は「はっ」と鼻で笑ってから、冷たく言葉を返す。
「決まってんだろ。お前を鬼に差し出すんだよ」
「えっ!?」
「鬼は鬼子を喰うんだ。お前に家を潰す気が本当にないって言うなら、自分から鬼に喰われておいで!」
母の冷酷な命令に、小百合は血の気が引いた。
確かに、「鬼は鬼子を喰う」という噂があり、その過程で邪魔な人間を殺すとも言われている。
迷わず娘を差し出そうとする母の姿に、先ほどまで抱いていたはずの鬼への憎悪や殺意は、目の前に迫る死への恐怖に支配されてかき消された。
引っ張られるままに庭へ出ると、桃々香は小百合を放り投げるように地面に叩きつける。彼女も動揺しているのか、靴も履かずに庭に降りてきた。
小百合は振り返って母の顔を見上げる。
若い頃は絶世の美女と呼ばれていたらしい母の顔は、嫌悪と殺気で歪んでいる。
まるで、鬼だ。
自分はこれから、母に喰われるのか。
そう錯覚するほどの恐怖。
「……お、かあ、さま」
「お黙り。まったく、こんなことになるなら、お前なんか産まなければよかったよ」
母の暗い声に、小百合の中にあった微かな期待は音を立てて崩れ落ちた。
「お前なんか産まなければ」、そう言われたのは今日が初めてではない。
呪いを受けた10年前から今日まで、何度も言われてきた暴言の1つだ。
それなのに、今日この時だけは小百合の心を深く貫いた。
災いを呼ぶと言われる存在を怖がるのは仕方ない。
人間は所詮弱い生き物だから。
けれどきっと、この呪いさえ解ければ、家族の恐怖も消えると思っていた。
今は恐怖に心が支配されているだけで、心のどこかでは娘を愛してくれているはずだと、そう思っていたのだ。
……そうじゃ、なかったのだろうか。
光のなかったはずの小百合の瞳から、涙という名の光が溢れ始める。
小百合の心は、完全に絶望という底なし沼に突き落とされてしまった。
「だいたい、私はあの時どうしてあんなに必死になって……」
刹那、桃々香の言葉を遮るように、誰かの足音がした。
それは徐々に近づいてきて、2人のすぐそばで止まる。
「……なにをしている?」
次回の投稿は、10月5日(月)18:00頃です。




