鬼子とは
その日の夜。小百合は子どもの頃から続くいつもの夢を見ていた。
青空の中、少女の姿の自分が飛び回っている。蛍のような光が少女の周囲を飛び交い、鈴のような静かな笑い声が響く。つられて少女も笑っている。
少女が笑う理由は単純。ただただ、楽しいからだ。
小百合の幼少期に、こんな記憶は一切ない。そもそもただの人間に、空を飛ぶ力などあるはずがない。これは、あくまで小百合の夢だ。
誰にも蔑まれず、虐められず、強制されず、自由になりたい。
いつもと同じ夢。叶うはずのない夢。
しかし、その日はいつもと少し違った。
小百合の目の前に、人影が現れたのだ。それはモヤのようで、かろうじて人のような形をしていることが分かる。
次の瞬間、夢の中とは思えないほど鮮明な声が、小百合の耳に響く。
「……約束だ。迎えにゆく」
低い、恐怖を感じるほどに低いが、優しくて寂しい、そして懐かしい声だった。
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「――っ」
小百合は勢いよく飛び起きた。
綿のほとんど入っていない薄っぺらな布団。3畳ほどの広さしかない部屋。
家具と呼べるものは少し割れた鏡台と、2段構えの小さな箪笥のみ。
採光のためだけの小窓から、薄明るい光が差し込んできて夜明けを知らせている。
いつも通りの景色、いつも通りの朝に、小百合は深いため息を吐いた。
「……起きなきゃ」
のそのそと布団から出ると、箪笥を開ける。
少ない着物、その全てが着古されてボロボロだが、小百合はその中から最も綺麗な着物を取り出した。
空色の生地に白百合の花があしらわれたもので、1年に1度だけ着る小百合のお気に入りだ。
元々は桃々香が買ったが、「着てみたらなんだか地味だったから捨てておいて」と言っていた着物。だが小百合はその凛として咲く白百合に目を奪われ、母に隠れてうっかり着てしまった。
怒られるかと思ったが、母の前で見せてもなにも言われなかったので、そのまま自分の箪笥にしまい『特別な日』だけ着ようと決めたのだ。
寝間着から白百合の着物に着替え、鏡に自身の姿を映してみる。
荒れた黒髪、年々細くなる体、死んだ魚のような目。
幼少期は菩薩像のように朗らかで美しい顔だと言われたが、今はその影もないほど痩せこけている。
初めて白百合を纏った時は心が躍る思いだったが、今は、あの頃と変わらずに凛と咲くそれに強い劣等感を抱いてしまう。
生気のない、枯れ花のような女。
本日、その女は18歳となった。
(……まぁ、今年もお祝いなんてないでしょうけど)
そう考えてから、小百合は首の包帯が解けかけていることに気付いた。
「いけない、巻き直さないと」
慌てて鏡台の前に座り、一度包帯を全て外す。
小百合の包帯は、寺の住職から10年前に渡されたものだ。
池田家は、古くから続く名家だ。
和洋折衷の豪邸、池田家所有の裏山。
この街に限定すれば、池田家は最も位が高いと言える。
そんな家の娘として生まれた小百合は、なにも生まれた時から冷遇されていたわけではない。
言葉は強いが教育熱心で優しい母・桃々香の愛情と、寡黙だが優しい父・政吉の期待を受けて育った。
臆病だが頭がよく優しい3つ上の兄・弥政も頻繁に贈り物をくれたり、勉強を教えてくれたりすることもあったのだ。
自分は愛に満ちた幸せな幼少期を過ごしてきた。
――そう、小百合は思っている。
全てが変わったのは、今から10年前。ちょうど小百合が8歳の誕生日を迎えた日。
その日から小百合は、『鬼子』と呼ばれるようになった。
この国には、古くから鬼や妖怪の伝承がある。
今はほとんどの人間がその存在を信じていないが、少なくとも小百合は、それらが実在すると知っていた。
何故なら『鬼子』とは、鬼に襲われ呪いを受けた人間のことを指すからだ。
鬼子には、2つの大きな特徴がある。
1つは、首の後ろに噛み跡のようなアザがあること。
小百合の首にも、それはある。
そしてもう1つは、怪我の治りが異常に早く、病にもかからないということだ。
(……ただ身体が丈夫というだけなら、こんなにも嫌われることはなかったのかしら……)
鬼子の呪いを受けた者は、人々から忌み嫌われている。
だがその理由は、その身体的特徴によるものではない。
もっと別の、目には見えない大きな特性によるものだ。
大昔に、鬼子がいた村に1匹の鬼が現れ、たちまち滅ぼされてしまった。
それ以外にも鬼子や周囲の人間が行方不明になったという噂が多数あり、それゆえに「鬼子は災いを招く」と言われている。
包帯には封印の術が施されており、鬼からアザを隠す役割を持っている。
そのお陰か、現時点で小百合の周辺で呪いによる不幸は起こっていない。
包帯を巻き直すと、小百合はホッと安堵のため息を漏らす。
気休めかもしれないが、なにもないよりはずっとましだった。
ふと、思い出して小百合は鏡の中の自分に微笑んだ。
「……誕生日、おめでとう」
口にして、ツキリと心が痛む。
きっと誰からも、その言葉をもらうことはないだろう。
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「……奥様が、私を?」
食器を洗っていた小百合は、女中頭の言葉に手を止めた。
齢50歳の女中頭は、小百合のポカン、とした顔を忌々しげな顔で見下ろしている。
それでも仕事として、口を開く。
「えぇ。旦那様の執務室でお話があると」
「旦那様の……あの、でも食器が……」
「あなたの雑なやり方では皿が割れます。なにより、奥様をお待たせしているのですよ? 早くなさい」
冷たく言い放つと、小百合の返事も聞かず女中頭はため息をつきながら立ち去った。
(お母様が……しかも執務室ということは、お父様も……?)
両親が、小百合を呼んでいる。こんなことはこの10年で初めてだ。
小百合が父と話をしたのも、10年前が最後だった。
小百合は慌てて水を止めると、洗いかけの皿を置く。胸元から手ぬぐいを出して簡単に手を拭き、捲っていた袖を戻して執務室へ急いだ。
少し早足で廊下を歩きながら、小百合の心には微かな期待が膨らんでいた。
(もしかして……誕生日のお祝い、かしら)
理性では「そんなわけがない」と分かっていても、心はどうしても期待してしまう。
母・桃々香がこの家に嫁いだのが18歳らしいということもあり、小百合にとって『18』は節目のような数字でもあったのだ。
執務室の前に立つと、期待で高鳴る心臓を抑えながら扉をノックする。
「小百合です。参りました」
「……入りなさい」
返ってきたのは、政吉の声だ。
恐る恐る扉を開けると、そこには家族が全員揃っていた。
執務机で書き物をする父、ソファに腰かけて紅茶を飲む兄と母。
何故か、無性に緊張した。
4人が同じ空間に集うのは初めてのことではないのに。
執務室に入るのが初めてだからだろうか。
それとも、妙に機嫌の良さそうな母の横顔のせいだろうか。
小百合は頭を下げると、努めて冷静に口を開いた。
「お呼びと聞きました」
「……ふむ。お前も、今日で18歳になったな」
「……っ、左様で、ございます」
父の言葉に小百合の心は弾んだ。
誕生日を覚えてくれていたことが嬉しくて、無意識に頬が緩む。
もしかして、本当に……。
そう期待した途端、父の次の言葉が小百合を絶望に落とした。
「お前を尼寺に送ろうと思う」
次回の投稿は、10月2日(金)18:00頃です。




