はじまり
本日より、毎週月曜と金曜(最終金曜を除く)18:00頃から長編を投稿します!
池田小百合は、物心ついた頃から毎晩同じ夢を見ていた。
どこまでも続く青空を、少女の姿で自由に飛び回る夢。
少女の周りには蛍のような光がいくつも飛び交い、鈴のように静かで、そして楽しげな笑い声がする。
つられて、小百合も笑った。
夢の中では、誰も小百合を叱らないし、稽古も勉強もしなくていい。誰にもなににも、支配されない。
そんな自由を、ずっと望んでいた。
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「この役立たず!」
女は甲高い怒鳴り声と共に、小百合になにかを投げつける。
それがたった今淹れたばかりの紅茶のカップだと気づいた時には、もうそれは小百合の額に命中していた。
脳が揺れるような衝撃と、顔にかかった紅茶の熱。
思わず悲鳴を上げそうになったが、小百合は下唇をギュッと噛んでそれを堪える。
ぬめりとしたなにかが額から垂れてきても、焼けるような熱で顔中が痛くても、それを庇うことはしなかった。
ソファに座る女の足元に膝をつき、平伏する。
「……申し訳ありません、すぐに淹れ直します」
抑揚のない声で謝罪すると、女は気に食わなかったのか小百合の頭を掴み、強引に持ち上げる。
死んだ魚のような小百合の目と、狐のような女の目が至近距離でぶつかった。
厚く塗られた白粉に、真っ赤な口紅、黒く艶めく髪はきっちりと結い上げられ、少しの緩みも許さないと言わんばかり。
異国を思わせるような真っ赤なウールドレスと、コルセットで武装した佇まいは、女の威圧感をさらに強めている。
肌も髪も枯れ草のように荒れ、化粧の1つもしていない。着物も継ぎ接ぎだらけの小百合とは天と地ほどの開きがあった。
女の瞳の中に、小百合が映っている。と思うと、火傷で腫れた皮膚と額の傷が消えるのが瞳越しに見えた。
女は顔を歪ませ、心底嫌そうな表情を見せる。
「まったく気味が悪いね! お茶も満足に淹れられない。本当にお前は役立たずで醜い疫病神だよ!」
「……申し訳ございません、お母様」
先ほどと同じ声色で謝罪すると、母と呼ばれた女は顔を真っ赤にさせた。テーブルの上の扇を手に取り、『娘』の頬を勢いよく打つ。
「奥様とお呼びと言っているでしょう! お前のような『鬼子』、我が家の恥よ!!」
殴られた拍子に、小百合の身体は床に倒れる。
おおよそ親子とは思えない光景だが、この家では10年前から日常と化していた。
母の隣に座る藍染の着流しを身に纏った気の弱そうな顔つきの青年は、時折女の顔を横目でチラチラ見つつ静かに紅茶をすすっている。
ほんの一瞬だけ『妹』に気の毒そうな視線を向けたが、それだけだ。
青年の向かい側に座る濃紺の羽織を着た壮年の男は、なにも見えていないかのように冷たい表情で本を読んでいる。
常に刻まれている眉間の皺は、『娘』が暴力を受けているにも関わらずピクリとも動かない。
部屋の隅に控えている使用人や女中たちも、誰一人として声を上げない。誰も彼も、見て見ぬふりをしている。
小百合はそれを、当然のものとして受け止めていた。
(……鬼子の私に、この家の娘を名乗る資格なんてない……)
小百合は打たれた頬の痛みが消えるのを待たずに姿勢を正し、再び地面に額を擦り付ける。
「申し訳ございません、奥様」
「ふん、もういい。朝っぱらからお前の気持ち悪い顔なんて見たくないのよ。表の掃除でもしておいで」
「かしこまりました」
急に興味をなくしたようにそっぽを向く母に、小百合は内心でホッとした。
(今日はあまり殴られなかったわね……)
珍しい幸運に喜ぶ心を悟られないように、小百合は胸元から擦り切れた手ぬぐいを取り出して床にこぼれた紅茶を簡単に拭う。
投げられたカップは幸い欠けていなかったが、床に落ちた食器をそのまま出すわけにはいかないので、拾って懐に入れる。
片付けを終えると、小百合は立ち上がり「失礼します」と頭を下げて退室した。
扉を閉じて母の姿が見えなくなると、小百合は安堵のようなため息を吐く。
奴隷のような扱い、古着とも言えないような継ぎ接ぎの着物、母からの折檻。
こんな生活はかれこれ10年続いている。きっと、この先もずっと続くのだろう。
しかし小百合の中には、いまだにわずかな期待があった。
――この、『鬼子の呪い』さえなければ、元の家族に戻れるのではないか。
正直、元の家族がどんなだったかは、朧げにしか覚えていない。だが少なくとも、今よりはずっとマシな関係だったはずだ。
小百合は首の包帯にそっと触れる。
そして、台所へ向かって歩き出した。
打たれた頬の痛みは、すでに消えていた。
次回の更新は、9月28日(月)18:00頃です。




