第九十五話 九月一日(土)早朝 1
朝の匂いが心地よかった。
小鳥たちのさえずりが聞こえてくる。通学路には僕と、よこに女の子がひとりだけ。まだ午前六時台ということもあってか、さきほどからずっと、他人の姿は見かけていない。
夏休みも昨日でおわり、いよいよ本日九月一日から新学期ということになるが、休みボケという感じはまったくなかった。頭はすっきりしているし、体のキレもいい。じつにすがすがしい気分である。
顔からは自然と笑みがこぼれ、全身からは炎のような気合が噴出していると思えるほどだった。
「公平さん、鼻のしたが伸びてますよ」
隣を歩いている女の子――徹子ちゃんが、苦笑したような表情をうかべていた。
「えっ、そ、そうかな?」
「まったく……。彼女ができて、うれしいのはわかりますけどね」
的確な指摘である。なんともごまかしようがなく、僕はつい、鼻の頭をぽりぽりと掻いてしまった。
さて、二学期始業式の日の早朝に、僕たちがいつもの通学路でなにをしているかと問われれば、登校というひねりのない答えをかえすことになる。しかし、ではなぜこの時間帯にとなると、それには確固たる理由があった。すなわち、文化祭である。
そもそも、わが三ノ杜学園では、毎年、九月の第二日曜が文化祭の開催日に設定されている。
ところが、今年は九月のはじめである今日あすが週末にあたるため、第二日曜日が九日ということになってしまったのだ。これは、例年とくらべてもだいぶ早い開催日であり、必然的に準備のための時間がみじかくなることを意味する。
この日程の厳しさに、危機感をいだいた文化祭実行委員会は、なんとかして時間を捻出するべく、生徒会をつうじて学校側と話しあい、二学期最初のホームルームを、各クラスで文化祭の催し物を決めるためのミーティングとして使用する許可をえることに成功した。
つまり、けさのうちに、あるていどの計画を立てることで、放課後からすぐに準備期間にはいることができるわけだ。そして、僕をふくめ各クラスの学級委員は全員、ホームルームのために早出をすることになったのである。
なお、徹子ちゃんは本来、学級委員ではない。それが、今日こうして僕といっしょに登校してきているのは、現在の彼女の立場が、副委員の代理ということになっているからである。
なんでも、もともとの副委員が家庭の事情できゅうに転校してしまったそうで、その子と仲のよかった徹子ちゃんが、後任として指名されたのだという。
文化祭にむけた暫定的な処置らしく、その意味で、あくまでも『代理』とのことだった。
「でもわたし、いまだに信じられません! 公平さんが、幸さん以外のひととお付き合いするだなんて!」
徹子ちゃんの声に、咎めるような響きがあった。
「しかたないさ。好きになっちゃったんだから」
僕は肩をすくめた。
こころとつきあうことになって、三週間がすぎた。幸には告白当日の夜に、ゴーや徹子ちゃんには翌日に、そして委員長をはじめとする仲のいいクラスメイトたちには、先週の後期補習授業のときに、それぞれ報告した。
みんな、なにをいまさらというような反応をしてくれたわけだが、ひとり徹子ちゃんだけは様子がちがっていた。
学年がことなり、情報がすべて伝聞だったためか、どうやら彼女は僕とこころの関係について、激しく誤解をしてしまっていたようなのである。
具体的にいうと、徹子ちゃんは、こころが僕を一方的に好きになり、かってに弁当を作ってきたりして付きまとっていると思いこんでいたのだそうだ。
つきあうことになったと告げて、開口一番かえってきた言葉が『なにか弱みをにぎられたんですかっ』である。こちらにとってもあまりに予想外の反応で、一瞬、僕は徹子ちゃんがなにをいっているのか理解できなかった。
もちろん、その場ですぐに、僕とこころがつきあうようになったいきさつを話してきかせたので、いまはもう正確な状況を把握してくれているはずなのだが、この口ぶりだと、まだ納得はしていなかったのかもしれない。
「やっぱり……。いつまでも応えてくれない相手に気持ちを向けつづけるのって、むずかしいんですね。なんだか、さびしいなあ」
芝居がかったような身振りで、徹子ちゃんがそんなことをいってきた。おどけて、おおげさな言いかたをしているといった雰囲気だが、すこし自分のなかで引っかかるところがあった。
「まって、徹子ちゃん。いちおう言っておくけどさ。幸の代わりにこころとつきあうとか、そういう話じゃないからね? そこだけは、絶対に勘違いしないで」
「……は?」
こちらが真剣に返事をしたので、徹子ちゃんは面食らったようだった。