第九十四話 八月九日(木)夜 2
花火が終わっても、僕たちは手をはなさなかった。
耳の感覚がもどり、感想を言いあっているあいだも、ずっと互いの手を握りあったままだったのだ。
夜とはいえ、夏である。けっして気温は低くない。掌は、軽く汗ばんでさえいる。それでも、手がはなせなかった。ほんの一瞬たりとも、はなれたくなかったからだった。
駅で切符を買うときだけ、財布を出すために手をはずした。そうして、用が済んだら、ふたたび、あたりまえのように手を握りあうのである。
電車が来ても、席に座っても、ずっとそのままだった。
堤さんは、電車のなかではあまりしゃべらなかった。目をとじて、こちらにもたれかかっているだけである。眠っているわけではないだろうことは、絡まった指先にかかる微妙な力でわかった。
僕はといえば、だまって堤さんの顔をながめていた。
ととのっていて、形のいい眉。切れ長の目。ちいさなかわいらしい鼻。赤くみずみずしいくちびる。なにもかもが、見惚れるほどうつくしい。
いま、堤さんが目をあけたら、僕がじっと顔に見入っていたことを知られてしまう。もしかしたら不愉快に思われ、咎められてしまうかもしれない。
そう思っても、視線をそらすことはできなかった。自分の目のなかに、彼女の姿を焼きつけてしまいたかった。
かすかに、堤さんのくちびるが動いた。
「こーへい、しゃん」
ささやくような声だった。
「なに?」
「名前で呼んでも、いい?」
彼女の目が開いた。じっとうかがうように、こちらの顔を見つめている。
「うん。……僕もこれから、こころって呼んでいいかな」
「……はい」
ふたたび、堤さんが――こころが、目をとじた。
自分の気持ちを落ち着かせるため、僕はいちど、彼女に気どられないように深呼吸をした。そうして、ようやく視線をほかの場所にうつすと、こんどは席のむかい側にある電車の大窓が目にはいってきた。
夜の闇を背景に、窓は墨を塗ったように黒く、外の様子はわからない。ただ、車内の灯りを反射して、鏡のようにひと組の男女の姿を映し出している。
寄り添って、固く手を握りあうそのふたりの姿は、まるで仲睦まじい恋人同士のようだった。
<第五章・了>