第九十三話 八月九日(木)夜 1
堤さんが、お手洗いからもどると、立花さんはすぐに席をたった。呼び止めて、電話番号とメールアドレスの交換をもちかけると、彼女は快く応じてくれた。
相手が笑顔だったこともあり、態度の豹変ぶりを不審に感じたのだろう。堤さんは、立花さんがいなくなると、さっそくという感じで尋ねてきた。
「えっと、ネコちんがすっごく機嫌よさそうだったけど、こころがいないあいだになにかあったの?」
「ああ、なんていったらいいのかな。彼女、堤さんのことが大好きなんだね」
そういって、笑ってみせると、堤さんは狐につままれたような顔で小首をかしげた。
体よくごまかした形ではあったが、それでもかまわないと思った。背中の火傷のことは、たやすく聞いていい話ではない気がするのだ。すくなくとも、いまはその段階ではない。
僕が、彼女の過去の傷に触れていいときが来るとしたら、それはきちんと気持ちを打ち明けて、受け入れてもらったあとのことである。
まだ午後になったばかりで、花火大会の開催には間があったので、こんどは堤さんの母校のあたりにも足をのばすことになった。ひとつひとつ、彼女の思い出の景色にふれていく。
時間をもてあますことはなかった。話すことはいくらでもあったし、気がむけば、そこらの店にはいって売り物を見たりすることもできる。路傍の草の匂いや風のわたる音も、堤さんとふたりであれば、それだけでかぎりなく愛おしい。
やがて、日が沈むころになると、街にもひとが増えはじめた。若者の数も、多くなってきた。
穴場だというその場所に着いたのは、ファミレスで夕食をすませたあと、午後七時ちかくだった。
砂浜である。それも、浜の岩で一区画を切り取ったような感じの場所だった。そこにそういう空間があるとしらなければ、周囲からは一塊の大岩にしか見えない。
なかには、中高生から老人まで、地元民とおぼしき数十人がいた。広さは充分なので、くつろぐことができそうである。
ひとまず、僕たちは適当に場所をえらんで、腰をおろすことにした。ビニールシートなどは用意していなかったので、タオルで代用することにした。
もしかしたら、立花さんがいるかもしれない。そう思ったが、どこにも見当たらなかった。花火見物には行くといっていたはずだが、この場には来ていないらしい。こちらに、気をつかってくれたのだろうか。
ほどなく、花火大会の開催をつげる放送がはじまった。スポンサーの名前などが読み上げられ、そしていよいよ最初の一発めが打ち上げられた。
頭のうえで、光の花が咲いた。
つづいて、轟音である。打ち上げ場所が近いため、振動が腹の底まで響いてくる。
夜の天蓋から、色とりどりの雫が落ちてきていた。手を伸ばせば取れそうな気がするほどだった。
すごいね。隣にいる堤さんに、そう話しかけてみた。だが、自分で口にしたはずなのに、声がほとんど聞えなかった。花火のせいである。ロック・コンサートのそれをもしのぐ爆音に、耳が麻痺しているのだ。
相手に聞こえたとは思えなかったが、堤さんは返事をしてくれたようだった。なにごとか、口を動かしてから、ふにゃりとした笑みをうかべたのである。うれしそうな顔だと思った。
大輪にひらいたもの、小ぶりに乱れ咲いたようなもの、滝のように流れ落ちるもの。さらに、土星だの串団子だの似せたユーモラスな形のものまで、色とりどりの花火が夜空を染めあげていく。
立て続けに、花火が打ち上げられはじめた。
十発どころではない。数十、いや百。すさまじいまでの音と光の雨が、僕たちに降りそそいでくる。
しらず、頭の芯までしびれてしまい、僕は地面の砂に手をついてしまっていた。
なにかが、指先にふれている気がする。
天上の光の雨を見つめながら、僕は腕をのばして、そのなにかに自分の手を重ねてみた。
やわらかくて、あたたかい。すべすべとしていて、気持ちのいいなにか。いったい、なんだろう……。
ああ、わかった。これは堤さんの手だ。
気づいたあとも、手をはずそうとは思わなかった。むしろ、もっと、ずっと触れあっていたかった。
またしても、立て続けに花火が上がりはじめた。光が、音が、夜空からあふれて、僕たちのうえにこぼれ落ちてくる。
指が、堤さんの細いそれが、僕に絡まってきた。しっかりと掌があわさり、互いの体温が混ざりあっていく。
肩に、重みを感じた。堤さんがこちらに体をあずけてきていた。半袖の腕に、彼女の長い髪が触れていて、すこしくすぐったいと思った。