第九十二話 八月九日(木)昼 3
もうした? 申した……いや、ちがうか。『もう』とは一定の水準に達したことをしめす副詞、『した』とは動詞『する』の連用形『し』に確認の意味をもつ助動詞『た』をくっつけたもの、だよな。つまり、彼女は、僕が堤さんとなにがしかの行為をしたのかどうか、確認をとっているというわけか。
はて? 僕と堤さんが、いったいどのような行為をするというのだろう。
数秒ご、立花さんの質問の意図を理解して、僕は顔面が沸騰した。
「い、いや、まだつきあってるわけでもないのに、そんなことは」
「まだ? そうなんだ……。でも、だったらこれから告白したりする気はあるってこと?」
冗談をいったにしては、立花さんは笑ったりはしていなかった。相手のみょうに冷ややかな態度で、僕はなんとか平静を取りもどすことができた。
「おほん。その、恋人になってもらいたいと思ってるよ。もちろん、彼女が受けてくれればだけどね」
ごまかすつもりはなかった。立花さんは堤さんの幼なじみで、おそらくは親友でもある。話して仲を認めてもらえるなら、それにこしたことはないのだ。
――こちらの返事に、立花さんは、なにか考えごとをしている様子だった。どこかしら、つまらなそうにも見える。だが、彼女がなぜ、そんな態度をとっているのかまではわからなかった。
「えっと、ね。ココちんの背中から腰のあたりにかけて」
ちらりと、立花さんが店の奥のほうに目をやった。堤さんが、まだ帰ってこないのかを確認したのかもしれない。
「古い火傷のあとがあるんだ。もうだいぶ目立たなくなってるけど、それでも服を脱げばすぐに見てわかるぐらいのが」
「やけど?」
最初にうかんだのは、どうしてそんな場所にという疑問だった。
つづいて、理由を自分なりに想像しようとしたところで、なにか漠然とした不安のようなものが心の底にわだかまりはじめ、僕はあわてて、立花さんの話に集中するようつとめた。
「ボクはさ、ココちんとは小学校高学年からのつきあいなんだけど、当時から、その火傷はあったんだよ。身体測定なんかで裸になったときに、ちょっと気になって、どうしたのか尋ねてみたことがある。自分でもよくわからない、覚えてないっていってた」
一瞬、立花さんの視線が、どこか遠い場所にむけられた気がした。だが、彼女はすぐに表情を引き締まったものにあらためた。
「いまから教えることは、あまり正確な情報とはいえない。ボクはあとから調べただけで当事者じゃないし、関係者に話をしてもらうにも限度ってものがある。だけど、……最低限の、おおまかな流れにはまちがいがないと思って聞いてほしい」
「あ、ああ」
うなずいた僕の顔を、値踏みでもするように見つめてから、立花さんはいった。
「なんていうか……。その火傷さ、他人から、熱いものを押しつけられたあとなんだよ。小学校に入学するもっとずっとまえ、あの子がまだちいさかったころに」
しらず、僕はつばを飲みこんでいた。そうして、アルバムのなかの幼い堤さんの姿を思いうかべた。
あの、まるで人形のようにかわいらしかった彼女が、だれかに熱いものを押しつけられて火傷を負った。それはいったいどんなことを意味するのか。
いくつかのとても嫌な、考えたくもないようなことが、脳裏をよぎっていく。自分の想像した内容を否定してほしくて、僕は立花さんの顔を凝視してしまった。しかし、彼女はこちらの視線を、ただ目を細めて受けとめただけだった。
「虐待だよ」
彼女のその言葉は、氷でできた杭のように、僕の胸に突き刺さった。
「ココちんはね、幼いころに、おとなの男からひどい暴力を受けたことがあるんだ。……ああ、しってると思うけど、あの子、ものすごい男性恐怖症でしょ?」
「それ……は」
自分の手が震えていることに、僕は気づいた。
たしかに、堤さんの男性恐怖症については、委員長から話を聞かされたことがあるし、また僕自身もそういった姿を目撃してもいる。ゴーのときと、ナンパされた直後のときだ。
とくに後者は、単純に男性恐怖症というにはちょっと度がすぎるというか、異常とすら思えるほどの怯えかたで、ナンパにまつわる恐ろしい経験でもあるのかと、心配になってしまったほどである。
簡単に信じたい情報では断じてない。だが、僕から見ても、堤さんの過去に、なにかがあったらしいのは、ほとんど確定的なことであるように思える。
しかしそれが、よりによって虐待だったなんて、そんなひどい話があっていいのか?
「もし、ボクのいうことが信用できないなら、そっちであの子と仲よくしてる女子にでも聞いてみるといい。とりあえず、火傷についてはすぐ確認できるはずだから」
「わ、わかった。あとで、そうさせてもらうよ。……でも、仮にそれがほんとうだったとして、だれがそんなことを? まさか、父親が」
ゴーの実父の例を持ち出すまでもなく、世の中の親がすべて、子供を守り愛することができる存在であるとは限らないことぐらい、わかっている。だが、こちらの指摘に、立花さんはかぶりをふった。
「ないね。他人ちの話だし、こんなふうにはっきり断言しちゃえるほど事情に通じてるわけじゃないけど、でもボクはあの子のご両親には会ったことがあるんだ。ふつうに感じのいいひとたちで、家族の仲もよさそうに見えたよ。……もっとも、ちょっと遠慮がちというか、よそよそしいような雰囲気はあったかな。まあ、そこは、ご本人たちがお仕事で忙しくて、家にいないことが多いのが原因だと思うね」
紅茶を一口すすって、立花さんは話をつづけた。
「……で、だ。これは、あくまでも終わったことなんだ。十年を超える大昔のほんの一時期に、そういうことがあったっていうだけで、それ以上の意味はない。重要なのは、これからさき、未来のことだよ」
ふいに、立花さんの視線が鋭くなった。
「キミ、さっき恋人になってもらいたいとかいってたけどさ、ほんとにだいじょうぶなの? あの子、かなり面倒なタイプだと思うよ? ボクとしては、ココちんが傷つくような事態にはなって欲しくないし、ちゃんと守ってあげられないなら、はじめから付き合わないほうがいいんじゃないかと……」
「守るよ、絶対に!」
思わず、声を荒げてしまいそうになった。
強い感情が、僕のなかで燻りつつあるのがわかる。これは、怒りだ。苛立ちといってもいい。しかし、自分がなにに対して腹を立てているのか、いまいち判然としなかった。
目のまえの彼女に、見くびるようなことを言われたからか? ちがうような気がする。それよりも、とにかく、だれかが僕の堤さんを傷つけたというのが、まず許せない。
「あれ、またずいぶんときっぱり言い切ったものだね」
立花さんが、意外そうな声をあげた。
「ふうん……。ココちんもだいぶ気持ちを許してるみたいだし、やっぱりそういうことなのかな」
ふっと、立花さんの表情に寂しげなものがうかんだ。
「そういう?」
「ほら、ココちんってさ、綺麗な顔してるじゃない。だから、中学生ぐらいになると、つきあいたいって言いだす男子も、それなりに出てきたわけ。なのに、この話を聞かせたとたん、みーんな引いてっちゃうんだよ。男なんて口先ばっかで、面倒な女は避けるもんだと思ってたんだけどな」
いわれて、やっと理解することができた。さきほどまで、立花さんの態度が悪かった原因である。彼女は、その口先だけのやつらと僕を同様に考えて、堤さんのために警戒してくれていたのだろう。
「そんな。僕は絶対に堤さんを守るよ!」
もういちど、そう断言してみせると、立花さんは、ついさきほどまでとはまるで印象の異なる柔和な表情をうかべた。
「かもね。ボクも、キミならできそうな気がするよ。というか、ココちんのほうが、すっかりその気になってのぼせてるみたいだし」
「え……」
空になったケーキの皿をフォークで弄びつつ、立花さんがくすくすと含み笑いをもらしている。
「久しぶりに会ったと思ったら、顔に『こころはこのひとのことが大好きです』って書いてあるような状態なんだもの。なんかもう、ほんと、妬けちゃうな。ココちんとは長いつきあいになるけど、あんなの見たことないよ」
「か、顔に?」
幸とおなじようなことを、立花さんは言っていた。
「最後に……。ひとつ、ボクからキミにお願いしたいことがある」
きゅうに、立花さんが表情を真剣なものにあらためた。
「どうか、ココちんを傷つけないでほしい。もしあの子を泣かせたら、ボクはキミを許さないよ」
睨むような視線だった。猫科動物の目を思わせる強い瞳である。だが、僕はそれを真っ向から受けとめた。
「まかせて。絶対に、堤さんを守ってみせるから」
口に出した言葉を、僕は自分自身の心に深くきざみこんだ。




