第九十話 八月九日(木)昼 1
基本的に、堤さんは長距離を歩くことを苦にしないタイプである。
自転車に乗るのがあまり得意ではないらしく、子供のころからどこにいくにも徒歩が多かったのだという。中学生になるころには、すでに家事の大半をまかされていたそうで、なるべく安くていい食材を購入するために、商店街の店やスーパーをはしごしていたなどという話も聞いている。
すくなくとも、これまで僕と買い物をしたときに、歩いていて疲れを訴えてきたことは、いちどもなかったのだ。
ところが、今日はどこか様子がおかしかった。
「足が痛いの?」
「痛いってほどじゃないけど、靴がちょっと……。買ったばっかりのだったからかな」
どうやら、新しい靴――赤を基調に、甲の部分に花のような飾りがついている――を履いてきたため、足に負担がかかってしまったようである。
見たところ、ヒールが高いというわけでもなく、とくに歩きにくそうな靴ではなさそうだが、買ったばかりということなら、まだ足になじんでいなかったのかもしれない。
「だったら、どこかで休んでいく? 時間もちょうどいいし、昼食もかねて」
「うん、いいよ。じゃあ、この近くに公園があるから、そこにいこ」
え? 公園で昼食?
一瞬、きょとんとしかけた僕の鼻先に、堤さんが手荷物の鞄をかかげた。
「あのね、じつは、ふたりで食べようと思って、お弁当もってきたの」
「そ、そうなんだ。ありがとうね」
思わず、僕は笑いそうになってしまった。
朝、集合場所で聞いた話では、委員長がドタキャンの連絡をいれたのは、堤さんが駅についたあとだったはずだ。にもかかわらず、彼女は僕と『ふたりで食べる』ために弁当を作ってきたというのである。これでは、はじめからそういう計画だったと、自分で明かしているようなものではないか。
うぬぼれではない。ここまできたら、断言できる。堤さんは、僕を好きになってくれたのだ。そして、たがいの関係を、もう一歩すすんだものにしたいと願ってくれてもいる。
となれば、あとはもう、どんなタイミングで告白するかだけである。ロマンチックなムードがあるほうがいいよな。やはり、花火を見終わったあとだろうか。
ふいに、不安になってきた。きちんと、気持ちを打ち明けることができるのか。
かつて、幸に告白したときは、緊張のあまり呼吸ができなくなった。見かねた相手に抱きしめられ、やさしく勇気づけられ、それでやっと『好きだ』と伝えることができたのである。
こんどこそ、あんな無様なことにはしない。絶対に、まっとうな告白をしてやる。僕は、強くそう思った。
目的の公園には、数分たらずでついた。意外にも、三ノ杜のそれと比べて、遜色がない規模である。敷地など、こちらのほうが広いかもしれない。
なかにはいると、何組もの親子連れや、若いカップルなどの姿が目に入った。ピクニックでもしているのか、それぞれ弁当を食べたりしつつ、のんびりとくつろいでいる。僕たちも、適当な場所を確保して、腰をおろすことにした。
そこかしこの談笑のあいまに、セミの鳴き声が聞こえてくる。ときおり吹き抜ける風が心地よかった。
「はい、お弁当」
にこりと笑って、堤さんが弁当箱ふたつと箸、その他一式を手渡してくれた。
「いただきます」
おしぼりで手をぬぐってから、ひとつめの箱の蓋をあけると、中身は白米と梅干、すなわち、いわゆる日の丸弁当だった。おかず類はふたつめのほうにまとめられており、そちらはニンジン・ジャガイモ・インゲンなどの入った野菜の煮物と、肉団子だった。
煮物は、形がしっかりしているのにやわらかで、ダシがよくしみていた。肉団子のほうは、中華ふうに甘酢あんがかけられており、コクのある味わいがなんともいえない。
「どうぞ、お茶」
タイミングを見計らったように、堤さんが水筒を出してくれた。
「ありがとう」
冷たい緑茶が、喉を通り抜けていく。
あらためて、僕は深い感動を覚えていた。
こんなに素敵なひとが、僕を好きになってくれたのである。なにかの間違いかと思ってしまいそうになるが、そうではないのだ。
というより、このごにおよんで間違いなどと言いだすのは、もはや彼女にたいして失礼だとすらいえる気がした。
やがて、弁当をたいらげ、片付けもすませると、つかのま言葉がとぎれた。あいかわらず、穏やかな風があたりを流れている。離れた場所では、数人の子供たちが走りまわっているようだ。
いま、このときは、もしかしたら、ある意味ロマンチックなのかもしれない。ふと、僕はそう思った。
なんとなく、堤さんのほうに視線をうつしてみた。
目があった。彼女も、こちらの様子をうかがっていたようだ。
「堤さん」
ごく自然に、流れるように、僕は彼女の名前を口にしていた。
「廣井さん……」
ほんの少しだけ、堤さんの目が見開かれた気がする。綺麗に澄んだ瞳。ずっと見つめていたい。
すうと、息をすいこんだ。この息を吐きだすのは、気持ちを打ち明けるときだ。愛の言葉をのせて……。
「ココちん? ココちんだよね?」
いきなり、よこからだれかが声をかけてきた。弾かれたように、堤さんがそちらに向き直った。
「ね……ネコちん?」
声の主は、僕たちと同年代ぐらいの少女だった。およそ五メートルほど離れた位置で、ひとりたたずんでいる。堤さんは、すぐにその場で立ちあがると、いそいそと相手に歩みよっていった。
――ひさしぶり。元気してた?
ほどなく、そんなやりとりが聞こえてきた。僕はなにもいえず、ただため息をつきながら、ぼんやりとふたりの様子を眺めることしかできなかった。