第八十九話 八月九日(木)午前
そのごの数日は、夏休みらしくのんびりとすごし、木曜になった。花火大会の開催日である。待ちあわせ場所は三ノ杜駅、時間は午前十時だった。
イベントがはじまるのが夜なのに、その時間に集合なのは、いい機会なので、明るいうちに、堤さんの生まれ育った街を見てまわろうという話になっていたからである。
朝、ふだんどおりに食事をとったあと、出かける準備をしつつ、自室でひとりくつろいでいると、電話がかかってきた。堤さんからだった。
「お、おはようございます……」
「やあ、おはよう。どうしたの?」
彼女の声は、どこかおどおどとしたような感じだった。僕は、なにか問題でも発生したのかと、心配になってしまった。
「いえ、あの、その、今日はほんとに来てくれるのかなと」
「うん? そりゃ行くさ。約束だもの」
昨日も、夜に電話で確認したばかりである。それでなくても、最近の堤さんの話題は、花火のことが多かったのだ。まるで、遠足をまえにした子供のようだと僕は思った。
「……じゃあ、いまから出るからね」
すぐに会えるということもあり、電話は早めに切り上げた。それから、身だしなみを整えて、家をあとにした。
道すがら、先日あすかと会ったときに、脳裏にうかんだおかしな考えについて、僕は思いをはせていた。あれからずっと、そのことが頭をはなれていなかったのである。
やがて、駅につくと、さきに来て待っていてくれたと思しき堤さんの姿が目にはいった。
本日の堤さんの服装は、赤っぽい南国ふうの花――おそらくはハイビスカス――が、隙間なくちりばめられた柄のワンピースである。肩が露出していて、胸のあたりがゆったりとふくらんだデザインだった。
スカート部分は、先端にいくにしたがい、半透明になっている。そのおかげで、彼女のもとから長い脚が、さらに強調されており、思わずはっとさせられたほどだった。
見ると、堤さんはひとりのようである。どうやら僕の存在に気づいたらしく、彼女はつかつかとこちらに歩みよってきた。
「あ、あの、安倍さんは、今日は風邪をひいたとかで! ついさっき、電話があったんだけどっ!」
ものすごく必死な様子で、堤さんは聞かれもしないうちから、委員長不在の説明をしてくれた。僕はといえば『やっぱり』と思っただけである。
「そうなんだ。じゃあ、今日はふたりで花火を見るんだね」
「うん……」
ふにゃりと、堤さんが表情をほころばせた。相手のこの、安堵したとしかいいようのない反応に、僕は、委員長が気を利かせてくれたのだということを確信していた。おそらくは幸も同様である。
連絡係というのは、ただの口実だったのだ。あのふたりは、僕たちのためにデートのセッティングをしてくれたのである。
しらず、僕は燃えるような気持ちになっていた。
なにしろ、花火大会に、好きな女の子とふたりで行くのである。そして、相手もこちらとおなじ気持ちであるように思えるのだ。ここまでお膳立てされたら、もうやるしかないだろう。僕だって男だ。決心した。今日、告白する。
あすかのことは気にかかるが、いまは堤さんに自分の気持ちを打ち明けるほうが重要だ。さきのことは、つきあってもらえることになってから考えればいい。
ともあれ、そろそろ出発である。ふたりして駅の自動販売機で切符を買い、電車に乗りむことにした。
目的の二ノ宮市には、一時間半ほどで到着した。
電車を降りて、最初に思ったことは『ちいさい』だった。駅が、である。そとに出ても、印象そのものは変わらなかった。駅前商店街も、じつにこじんまりとしたもので、夏祭りの日にしては、活気があまり感じられなかったのである。
いつだったか、堤さんが『三ノ杜市は、自分がすんでいた場所より、商店街がおおきくてひとが多い』というようなことを言っていたのを、僕は思いだしていた。
「二ノ宮市って、ずいぶんと落ちついた感じなんだね」
いちおう、率直な感想である。もうすこし詳しく形容するなら『安楽椅子に腰かけた老婆のように』とでもつけくわえたいところだが、街の雰囲気の比喩として、適切だとは思えなかったので、自重することにした。
「駅前は、さびれちゃってるから……。えっとね、むこうのほう、八百メートルぐらい行ったところに、もういっこ商店街があるの。そっちはもっと賑やかだよ」
それでも、三ノ杜の商店街とは比べものにならないけどねと言って、堤さんはにこりとほほえんだ。
なるほど、こういう穏やかな街で、彼女は育ったのかと思った。
以前きいたところによると、堤さんは、三ノ杜市に引っ越すまで、ナンパにあったことがなかったそうだが、これならたしかに納得である。ざっと見回しても、あきらかに、若者より老人のほうがに多いのだ。
たぶん、ナンパをするような積極的な人間は、近隣のもっとおおきな街に遊びに行くのだろう。
ひとまず、堤さんの案内で、ひとが多いほうの商店街にむかうことにした。そちらのほうには、彼女のいうとおり、それなりに中高生の姿もあった。
「学校の帰り道なんかに、このあたりでよく買い物したんだよ」
堤さんが、この街で暮らしていたころのことを、うれしそうに語ってくれている。もし観光で来ていたのなら、退屈に感じたかもしれない。それでも、いまの僕には興味深かった。ここには、彼女の思い出がつまっているのである。
僕は、三ノ杜市に来るまえの堤さんを、話でしか知らない。幼なじみで、ちいさなころからおなじ時間を共有してきた幸とは違うのだ。
もっと、堤さんのことを知りたい。彼女が目に映してきたものを見てみたい。
ふと、切なくなった。その感情を、顔に出さないようつとめながら、僕は堤さんの言葉に耳をかたむけた。