第八十六話 八月六日(月)夕方
勉強会から二日ごの夕方、僕はいつもの公園に来ていた。月曜なので、あすかと会うためである。
例によって、あたりにはひとの姿はない。考えごとがしたかったこともあり、僕はベンチには腰をおろさず、公園の敷地内をのんびりとぶらついていた。
すこし、憂鬱だった。
もちろん、あすかと会うのが嫌なわけではない。彼女は、基本的にはとてもいい子だし、話をしていて楽しいと思えることがほとんどである。ただ、どうにもやりにくいことがあるのだ。
この一ヶ月で、僕ははっきり堤さんと仲よくなれたと思っている。恋人になってもらうことが視野に入るぐらいに、はっきりとだ。なのに、それをあすかに伝えることができないでいた。
そもそも、あすかが現世に来ているのは、懲罰としての奉仕作業の完遂、すなわち、僕をだれか女と結びつけてしあわせにすることが目的である。そのため、彼女はこちらになにか恋愛的なイベントが起これば、自分のことのように喜んでくれている。
恋愛の対象を、はじめから決めてかかるな。だれと付き合うことになるのか、つねにその可能性とチャンスを意識しろ。幸だけでなく、委員長や徹子ちゃんが相手になることだってありえるのだ。あすかはそんなことをいって、いつも僕を勇気づけてくれている。
ところが、堤さんにかんしてのみ、まったく話が違っているのである。
とくに、例の噂についての顛末を聞かせて以降は、それが顕著になった。堤さんがらみの些細なエピソードを話しただけで、やれ頭がおかしいだの、やれそんな変なのとは関わらないほうがいいだのと、ちょっとありえないレベルの悪口をいってくるようになってしまったのである。
とにかく、堤さんという単語が出るだけで強烈な拒絶反応をしめし、強引に話題を変えようとしてくるか、さもなければ、相手の考えや行動の粗を、ほとんど曲解するようにして探そうとしてくるかのどちらかなのだ。
正直なところ、こちらとしても、そういうことをされるのは非常に不愉快だし、まずもって話が続けられなくなってしまう。おかげで今日にいたるまで、僕は堤さんについて、弁当を作ってもらえるようになったことはおろか、いっしょに買い物をするようになったことさえも、満足に説明することができていなかった。
いちどなど、あまりの言い草に呆れてしまい、堤さんに会ったことがあるのか、ないならなぜそこまで言えるのかと問い詰めたこともある。
たいするあすかの返答は『会ったことはないけど、話を聞いていればわかる。頭のおかしい人間とつきあったら、公平だけじゃなくて周囲にも被害がおよぶから、その転校生とは関わらないでほしい』というものだった。僕は二の句がつげなかった。
断るまでもないことだが、あすかの考えを理解したわけでも、まして認めたわけでもない。むしろ、思わず腹がたってしまい『おまえは、なにをいっているんだ』と怒鳴りつけたくなってしまったほどだ。それでも、実際にそうしなかったのは、相手がはじめて会ったときのようにさびしげな表情で、しかも、目に涙をためていたからだった。
やはり、あすかは堤さんのことを、よく知っているのではないかと思う。会ったことがないというのが嘘なのかもしれないし、あるいは、なんらかの事情で一方的にということなのかもしれないが。
顔が、よく似ていた。気づいたのは先月のことである。髪型も、眉毛の整えかたもちがうのに、僕は堤さんを、あすかと見間違えてしまったのだ。
血のつながり。最初に連想したのが、それだった。ただし、堤さんによると、彼女はひとりっ子で姉も妹もいないらしいし、そうなると、親戚ということなのかもしれない。
いちおう、堤さんには、転落事故で亡くなった親類縁者がいないかどうか、不審に思われない範囲でたずねてみたことはある。心当たりはないとのことだった。
それと、ふたりの関係も疑問ではあるが、もうひとつ厄介な点があった。
先述のとおり、あすかは懲罰で現世に来ており、成仏するためには、僕が恋人をつくらなければならないという前提がある。
そして、僕がいま恋人になってほしいと願っているのは、ほかならぬ堤さんなのだ。
つまり、このままだと、首尾よく相手と交際にこぎつけることができたとしても、あとでそれをあすかに報告し、きちんと認めてもらう必要がでてきてしまうのである。
もし、そのときに、あすかが堤さんを嫌ったままだったとしたら、いったいどうなってしまうのか。予想もつかなかった。ただ、絶対にすんなりとはいかないだろうという予感めいた確信があった。
ほんとうに、あすかはどうして、堤さんを嫌っているのだろうかと思う。なにか気に食わないことがあるというよりは、ほとんど憎んでいるとか、恨んでいるとかいうような感じだが、よほどのことがなければ、そんなふうにはならないはずである。
しかも、相手はよりによって、あの気弱を絵に描いたような性格をしている堤さんなのだ。彼女が、他人の憎しみを買うようなことをするとは、ちょっと考えられず、僕には、そこが納得できなかった。
むしろ、本人とは直接の関係がない部分で、そういうことになったと仮定すればどうだろう。
たとえば、堤さんのお父さんが、どこかで浮気をしたとする。そちらで女の子が生まれ、それがあすかだったとしたら?
証拠もないのに、堤さんのお父さんには失礼きわまりない話である。それに、いまの段階で、本気でそうと信じているわけでもない。あくまでも、ただのブレインストーミング的な思いつきである。
とはいえ、ことを物語として考えるなら、そこまで悪くない推測である気がした。ふたりの顔が似ているのも説明できるし、あすかが一方的に堤さんを嫌っているのも、そういった内容の創作物に照らしあわせれば、いかにもありえそうなことであるようにも思える。
もっとも、あすかが何年まえに亡くなったかもわからない以上、僕や堤さんとおなじ世代であるとすら断言できないわけで、結局はただの妄想でしかないのだけどな。
――歩きながら、そんなふうにつらつらと思いをめぐらせていると、なぜか、きゅうにずしりと肩が重くなった。
否、肩が重くなっていることを自覚したというべきか。はてと思うまもなく、頭のうえのほうから、だしぬけに元気のいい声が聞こえてきた。
「なぁにひとりで悩んでるのん? このあすかさんが、相談にのったげるよぉ」
悩みの原因の登場である。いつのまに、どのようにしてその体勢になったのかはわからないが、とにかく、僕はあすかを肩車しているようだった。
真っ白な太ももがにゅっと伸びて、こちらの頭を挟んでいる。とりあえず、僕は相手が落ちないように、あすかの膝のあたりをささえてやることにした。
「うーん、そうねえ……。悩みといえば、幽霊に取り憑かれて肩が重いことかな」
「しかたないよぉ、そりゃ。公平が、勇気をだして女の子を口説いてくれたら、アタシもすぐに成仏できるんだけどねえ」
くすくす笑いながら、あすかがこちらの髪を撫でている。実情からすると、あまりにも見当はずれなそのやりとりに、僕はつい苦笑をもらしてしまった。
まさしく、それこそが僕の困っている部分なんだけどな。すてきな女と恋をすることと、あすかを成仏させてやること。このふたつは、恋愛の相手が堤さんでさえなければ、矛盾なく同時に達成することが可能なはずだった。