第八十五話 八月四日(土)勉強会 3
背中がひりひりしていた。
幸の家を出発する直前のことである。玄関で『じゃあ、これから堤さんのところにいくから』といって、僕が背をむけた瞬間だった。
ほぉら、気合いれていけぇ!
そういって、幸は、僕にいきなり精神注入張り手、すなわち背中を思いっきりひっぱたく行為をぶちかましてきたのである。
いかに小柄で腕のほそい幸の張り手であろうと、そこは不意打ちである。僕はたまらず『おわっ』とまぬけな声をあげ、門のそとに飛び出してしまった。
振り返ると、幸はくすくすと笑っていて、ゴーは僕と彼女を呆れたような顔で見比べていた。
やれやれ、あれはいったいなんのつもりだったのかねえ。
ぼんやりと、幸の不可解な行動に思いをめぐらしつつも、僕はいま、堤さんのマンションへとつづく道を歩いているところである。
出がけに携帯で、これから行く旨の連絡を入れておいたので、むこうもいまごろは準備をして待っていてくれているはずだ。
はじめていっしょに買い物をしたのは、ほんの一ヶ月まえのことだった。それが、もうすでに、あたりまえの日常になりつつある。僕は、これからいつまで、彼女の家の食料品の買出しにつきあいつづけることになるのだろうか。
こんご、僕と堤さんの関係は、どうなっていくのだろう。
ココの顔には、あんたのことが好きだと書いてある。さきほど、幸はそういって、僕を勇気づけてくれた。それに、正直にいえば、彼女の見立てだけでなく、自分でも、もしかしたらと感じることがあったのは、事実である。
うぬぼれだろうと、気にしないようにつとめていたが、あるいは違うのかもしれない。堤さんは、ほんとうに僕を好きになってくれたのかもしれない。
だとしたら、心からうれしいと思う。できるなら、彼女に恋人になってほしいと、僕は考えはじめている。
いや、それすらも、じつは違うのかもしれない。むしろ、僕はもっと、ずっとまえから、堤さんにたいして、そういう感情をいだいていたのではという気がしてならないのだ。
たとえば、はじめて姿を見たとき、僕は彼女のうつくしさに感動したのではなかったか。はじめて声を聞いたとき、見た目に似あわぬ幼さを感じさせる口調を、かわいらしいと思ってしまったのではなかったか。
考えながら、同時に僕は苦笑もしていた。いつから好きになったのかもわからなくなっているようでは、これはもう相当に重篤な状態としかいいようがないではないか。
すでに、僕は堤さんに恋をしているのである。いつからとか、いつまでとか、そんな益体もないことを考える意味も必要も感じないほどに、彼女がどうしようもなく好きなのだ。
堤さんに、僕の恋人になってほしい。そして、抱きしめて、キスをしたい。耳元で、愛の言葉をささやいてみたい。
自分の気持ちを認めたら、まわりの景色すら変わって見えるようになった。ずっと、幸というおおきな存在がいたはずなのに、これがはじめての恋であるかのように新鮮な気分だった。
――いつのまにか、傾斜のゆるやかな坂道にさしかかっていた。堤さんのマンションは、ここをのぼったさきにある。この位置からなら、建物の姿を見ることもできる。
あともうすこしで、彼女に会えるのだ。そう思い、顔をあげると、およそ五十メートルばかり行ったところに、ひとりの女性がたたずんでいるのが見えた。
袖のない白ワンピースを身にまとい、時間を確認しているのか、右腕につけた腕時計をのぞきこんでいるらしきその女性――堤さんは、しかし、すぐに僕に気づいてくれたようで、こちらにむかって手をふってくれた。
夕方とはいえ、まだ青さをうしなっていない空のもと、手をふる堤さんの姿は、一枚の絵画のようにうつくしかった。思わず、立ち止まって、見とれてしまったほどである。
いますぐ彼女のそばまで走って行きたいような、このまま遠くからずっと眺めていたいような、そんな矛盾した気持ちを感じていた。
彼女は、僕の好きなひとなのだ。あらためて、そう思った。