第八十四話 八月四日(土)勉強会 2
よけいなことに時間をとられたせいで、ろくに課題がすすまないうちに昼になってしまった。
昼食は、静江さんの特製そうめんである。具は、ゆでた茄子と、おなじく豚肉の薄切りだった。氷のうえに盛りつけられており、冷たいツユにつけて食べるのである。
ほかには、海草と野菜のサラダ、果物の小皿などもあった。夏らしく、いかにも涼味といった感じだった。
茄子はツユをよく吸っており、また、豚肉も冷しゃぶという趣きで、さっぱりしていていくらでも入る。薬味は、刻んだ長ネギとミョウガだった。
むだ話に花を咲かせつつ、つるつるとそうめんをすすっているうちに、僕はふと、このまえ堤さんと買い物をしたときに聞いた豆知識を思いだした。
ミョウガについての俗説である。なんでも、それを食べると忘れっぽくなるらしいのだ。
ふいに、僕は笑ってしまいそうになった。今日は、夏休みの宿題をやりに来たのである。それなのに、ミョウガを食べてしまったら、せっかく勉強した内容を忘れてしまうではないか。
もちろん、そんな俗説に科学的根拠はないわけで、ひらたくいえばただの迷信である。また、静江さんだって、そういうことを意識して食材を選んだわけでもあるまい。ただ、勉強という目的と、出されたミョウガの落差がみょうにおもしろくて、ツボにはまってしまったのだ。
「どうしたん? 公平、なんかおかしいことでもあった?」
「うん? あ、いや、べつに」
いけない、表情に内心の笑いが出てしまっていたらしい。僕はあわててごまかすことにした。すると、こちらの様子を不審げにながめていた幸が、こんどはきゅうにニヤニヤと笑いだした。
はて、どうしたのだろう。なにか嫌な予感がする。
「もしかしてさ、公平、ココのこと考えてたのん?」
「なっ」
思わず、言葉につまってしまった。
たしかに、堤さんのことを考えていたのは、事実である。しかし、それは幸がニヤニヤと笑うような内容のことではなく、単純に、ミョウガについての豆知識だった。それ以外の変なことでは、断じてない。
だが、この場合、正直にそれをいうと、静江さんの料理に文句をつけているような形になってしまう。ちょっとした言い回しひとつで、言葉は気持ちと正反対の意味をもつこともあるのだ。
まずいな。いったい、なんと答えればいいのだろう。
困っているこちらを尻目に、幸は、ひとり合点をしたようにうなずいた。
「ココはかわいいもんなぁ。公平が好きになるの、よくわかるよ」
「い、いや、好きになるというか」
よくない流れになってしまった。考えれば考えるほど、どう言えばいいのかわからなくなってしまう。
好きか嫌いかの二択なら、僕はまちがいなく堤さんに好意をいだいている。だが、それが恋愛感情かと問われると、よくわからない。
そもそも、僕は、いま目のまえにいる幸に恋していたのではなかったか。
堤さんは、うつくしいひとだ。背はたかく、スタイルは抜群。しかも、黙っていれば凛々しく見えるほどの整った顔立ちをしている。それでいて、ふだんはいつも柔和な笑顔だった。転校してきたばかりのころは、ふわふわした雰囲気で、つかみどころがないと感じたものだ。
ところが、話してみると、すこし天然ボケがはいっているものの、すなおで、ちいさな子供のようにかわいらしいひとだった。そのギャップも、僕には好ましいものであるように思えた。
そして、いい匂いがした。堤さんのちかくにいると、ときどきほのかに香ってくるのだ。
女性の体の匂いなど、これまで意識したことはなかった。先日、彼女をまちがって抱きしめてしまったとき、はじめて気がついたのである。
どちらかといえば、それはかすかに漂うていどのもので、けっして強い匂いではなかった。なのに、そのなかにつつまれると、僕は圧倒されるような、このまま身を委ねてしまいたいような、おかしな気分におちいってしまうのである。
そんなとき、僕は堤さんを激しく掻き抱いてみたいという気持ちに囚われてしまう。さすがに、衝動のまま行動したことはないが、いつも、気持ちを切り替えるのに苦労したものだ。
こういってはなんだが、僕も健康な男であるわけだし、女子の体に興味をもってしまうのは、ある意味しかたのないことだと思う。だが、恋愛感情とは、もっと精神的なものであるべきではないだろうか。堤さんに感じていることは、それよりはずっと生々しくて、罪深いことであるように思える。
――などと、あれこれ悩んでいるあいだにも、幸は言葉をつづけた。
「あの子はいい子だよ。アタシ、公平がココとつきあうんだったら、応援したいなぁ」
しらず、僕は幸をじっと見つめていた。もう、彼女は笑っていなかった。箸をおき、頬杖をついて、こちらの反応をうかがうような表情をうかべている。
「おれ、ちょっと腹ごなしの散歩にいってくるわ」
さきほどから、ひとり黙々とそうめんをすすっていたゴーが、いきなり立ち上がった。そうして、自分のぶんの食器を手にもつと、さっさと部屋をあとにしてしまった。
「気をつかわせちゃったかな」
ゴーの背中を見送ったあと、幸はそういって薄く笑った。
「その……。幸、堤さんとは」
「つきあいなよ、公平。ココだって、あんたのことが好きなんだから。あの子の顔に、はっきりそう書いてあるもん」
いままでずっと、このような言葉を幸の口から聞きたいとは、思っていなかったはずだった。
「やめてくれ。僕は、幸のことが」
「アタシは、あんたとはつきあえないんだってば。いったろ? 弟みたいなもんだって」
厳しい口調だった。なのになぜか、あまり心に響いてこない。幸のいう『弟』という言葉も、以前のように辛いとは感じなくなっていた。
「逆に聞くけどさ、あんた、アタシのどこが好きなん?」
一瞬、質問の意味がわからなかった。
「こんなん自分で言うのもアレだけどさ。アタシ、ココみたいに美人じゃないし、胸もお尻もちいさくて女らしくないのに、なにがいいのん?」
すぐに返事をしようとして、僕はしかし、自分がその質問の答えを持ちあわせていないことに気づいた。自明すぎて、深く考えたことがなかったからだろうと思った。
「幸は、僕の大切なひとだよ」
「それは、恋愛感情なん?」
なにをいまさら。これが恋愛感情でなくて、いったいなんだというんだ?
「はー、まったく……。あのさ、アタシ、夏休みのまえまで公平とココのことを見てたし、補習中のあんたらの様子も、耀子ちゃんからぜんぶ聞いてんのよ」
なぜか、幸はため息をついた。
「自分じゃ気づいてなかったかもだけど、あんた、はっきりいって、あの子とアタシとじゃ、ううん、ほかの女ふくめても、接しかたがぜんぜん違ってるんだよ? なんか、人目もはばからずにベタベタ触りっこしてるし、簡単にふたりだけの世界にはいっちゃうし」
「えっ」
あ、あれ、そうだっただろうか。幸の意外な指摘に、僕はひどく落ちつかない気持ちになった。
「いいかげん、もう認めなって。あんたはココに恋してるんだよ。アタシじゃなくて、あの子に」
「だ、だけど、それは」
頭が、混乱しはじめていた。そして、混乱しながら、自分のなかに、相手の言葉を肯定している部分があることに気づいて、僕は愕然とした。
僕は、堤さんに恋している。
「もちろん、公平がアタシを大事にしてくれてるのは知ってるさ。でも」
どこか呆れたように、幸がいった。
「恋愛って、それだけじゃないっしょ? つうか、あんた、アタシと寝たいって思ったことあんの? 告白してくれたとき、家族とか友だちの延長じゃなくて、男と女の関係になりたいんだって、ほんとに心底から考えてた?」
気持ちに、偽りはない。そう反論したかったが、いえなかった。いま突きつけられている問いは、好きということ自体ではなく、その『質』のほうである。僕は、ほんとうに、幸と男と女の関係になりたかったのだろうか。
むしろ、断られたとき『幸と血のつながった姉弟であればよかったのに』というふうに考えてはいなかったか。
まて、違う。落ちつけ。いくらなんでも、幸に女としての魅力がないなどということはありえない。こちらから彼女にさわれないのも、相手を大切に思って意識しているからであって、興味を感じないからではない。
……なら、なんで僕は、堤さんに簡単に触れてしまえるんだ? どうして、強く抱きしめたいと、衝動的に思ってしまう?
「もう、わかったろ、公平?」
ふっと、幸がこちらから目をそむけた。
「あんたはさ、ココのことが好きなんだから、さっさと告白して、すなおにつきあっとけばいいんだよ。それが一番なんだ」
まるで、できの悪い子供に言いきかせるような口調だと思った。それで、話が一段落ついたのか、彼女はちいさく息をはいた。
つかのま、僕たちは沈黙した。
「でも、告白……したとして、つきあってもらえるのかな」
なにかいおうと思って、最初に出た言葉がそれだった。自分が、すでにすっかりその気になっているということが、どうにもふしぎでならなかった。
「だいじょうぶだって。さっきもいったけど、あの子の顔に『公平のことが好き』って書いてあんだもん」
「だって、堤さんは、男を怖がってるんだよ?」
すると、幸はくすくすと笑いだした。
「公平以外の男を、だろ。もっと自信もてって。あんた、クラスのなかじゃ、けっこう人気あんだぞ?」
初耳だった。興味がわいたので、くわしく聞いてみたところ、どうやら背が高いところと勉強の成績がいいところが、僕のセールスポイントだったらしい。
いわれてみれば、勉強にかんして、女子にわからない箇所を聞かれることはよくあった。そういうとき、できるだけ丁寧に教えるよう努力したのがよかったのかもしれない。
やがて、ゴーが戻ってきたこともあり、話はそこまでということになった。そのご、課題を再開すると、みょうに集中してとりくむことができた。
予定よりも短い時間しかやっていないのに、あらかじめ決めていたところまで、終わらせることができたのである。時刻はそこそこ早かったものの、計画以上にむりをして進めても意味はないということで、勉強会はそれでお開きということになった。
帰るまえに、静江さんが麦茶と大福を持ってきてくれたので、ご馳走になっていくことにした。
「ねえ、幸。そういえば、来週の木曜日に、二ノ宮市で花火大会があるって話だよ。堤さんと委員長に、いっしょに行かないかって誘われてるんだけど」
「おれは無理だな。その日はホタルと約束がある」
即座に答えたのは、ゴーだった。
「おまえは呼ばれてないよ。もともと女の子同士の集まりなんだし。僕が誘われたのは、幸に話を連絡するおこぼれっていうか、おまけだな」
苦笑しつつそう返事をすると、こんどは、幸も『行けない』といってきた。
「じつはね、ほかの友だちと約束があんだわ。だから、公平はココとゆっくり楽しんできなよ」
デートの邪魔はしないと言わんばかりの口調である。
「ふたりでいくわけじゃないよ。委員長もいっしょだってば」
「じゃあ、耀子ちゃんとも三人で楽しめばいいさ。あとで土産話、わすれんなよぉ?」
麦茶をすすりつつ、幸がいった。どうやら、からかうための冗談ではなく、ほんとうに先約があるようだ。まあ、それならそれでしかたないか。
「わかった。今日は堤さんと買い物をするから、そのときに伝えておくよ」
「おっ、これからかぁ?」
彼女との買い物は、だいたい二日にいちどの割合でおこなわれている。曜日でいうと火・木・土がほとんどだった。きっちりと日程をさだめているわけではないが、必要なものの購入ペースと、互いのつごうのいい曜日をすりあわせたら、自然とそういう形に落ちついたのである。
「あしたは、堤さんのお父さんが三週間ぶりに家に帰ってくるんだってさ。ちょっと手のかかる料理を作りたいとか言ってたよ」
「三週間ぶり? 親が忙しいとは聞いていたが、それは」
ひどくびっくりしたというように、ゴーが声をあげた。
「今回は特別で、ふだんは週にいちどは帰ってるみたいだけどね。けど、お母さんのほうも、日付がかわるまでは仕事がおわらないことが多いらしいんだ。堤さんも、なかなか大変なんだよ」
「ちゃんと、あんたが助けてやんなきゃな、公平」
笑顔で、幸がぱちりと片目をとじた。助けるというのは、さすがにおこがましい気もするが、僕にできることはしてあげたかった。