第八十三話 八月四日(土)勉強会 1
玄関の呼び鈴を押すと、幸の母親――静江さんが出迎えてくれた。
「ふたりとも、いらっしゃい。幸なら部屋にいるわよ」
勝手しったる他人の家とばかり、僕たちは二階にある幸の部屋にむかった。ドアをノックすると、どうぞという声が聞こえてきた。
「お邪魔します」
挨拶をして、なかにはいると、幸がベッドのへりに背をもたれさせて、こちらを見ていた。部屋の中央のテーブルには、筆記用具がならべられている。僕たちが来るまえに、さきにひとりではじめていたのかもしれない。
もちろん、勉強をである。
じつは、本日、僕たちが幸の部屋を訪れたのは、なにをかくそう、みんなで夏休みの課題をするためなのだ。
わが三ノ杜学園は、自由度の高い校風である反面、それを享受するためにこなさなければならない義務が多い。とくに、夏休みに代表される長期休暇中の課題は、膨大という形容詞を使いたくなるほどだ。
とにかく、量がありすぎて、ひとりで終わらせるのはかなり厳しいのである。そこで、仲間内であつまり、教えあいながら一気に課題を進めるというのが、長期休暇中の学生の慣習のような感じになっていた。
「ま、適当にすわって、ふたりとも」
「じゃあ、失礼させてもらうよ、幸」
とりあえず、テーブルを囲むようにして、用意されていたクッションに腰をおろした。ゴーが、徹子ちゃんのいない理由を幸に説明している。
幸と会うのも、一学期の最終日以来である。彼女は進学希望なので、ゴーとはちがい、本来は補習に参加するはずだった。ところが、日程と時間割、そして夏という季節を考慮した結果、体力的にむりがあるというので、かかりつけの医者からストップがかかってしまったのである。
「課題、すすんでる?」
「ぼちぼち。しっかし、ひどい量だよ、これ。ふつうに補習いくより大変なんじゃないかなぁ」
いって、幸は僕たちにプリントと問題集の束を見せてきた。なんというか、枚数や冊数ではなく、重さの単位で数えたくなるような、巨大な紙の塊である。思わず、僕は苦笑をもらしてしまった。
いかに夏休みの課題が膨大といっても、さすがにこれはありえない。幸の場合、補習に参加できないぶん、量が増やされているのである。
正直なところ、補習を受けるのもけっして楽ではないが、この塊とどちらがいいかと問われると、迷いを感じざるをえなかった。
「でさ。ちょっとわかんないところがあるから、あとで教えてほしいんだ」
「うん、いいよ」
僕と幸だと、成績は、いちおうこちらのほうが上になるが、そこまでいうほどの差はない。それなのに教えてくれということは、たぶん、彼女の課題の範囲に、補習授業でやった箇所が含まれているからなのだろう。
さて、ダラダラしていても時間がもったいないか。それでは、さっそくはじめるとしよう。そう思い、筆記用具をととのえたところで、ドアをノックする音がきこえてきた。静江さんである。手に、人数分のグラスがのったお盆をもっていた。
「麦茶をどうぞ。……ねえ、公平くん、最近うちに遊びにこないけど、どうかしたの?」
「べつに、どうというようなことは……。昨日までは、補習もありましたし」
相手のいうとおり、僕はここ一ヶ月強ばかり、この家に遊びに来ていなかった。それどころか、幸といっしょにすごす時間も、以前と比べてかなり減ったような気がする。堤さんに仲よくしてもらえるようになったら、自然とそうなっていったのだ。
「公平、最近はカノジョとラブラブするのに忙しくて、アタシと遊んでる暇がないんだってさ」
いきなり、幸がよこから口をはさんできた。彼女という予想だにしない言葉に、僕は狼狽してしまった。
「い、いや、堤さんは、そういう相手では」
「あっれぇ? アタシ、だれとか言ってないけど、なぁんでココの名前が出てくるのん?」
うわあ、しまった。僕はアホか。カマをかけられたのだ。くう、見事にひっかかってしまったぜ。
「ええっ、公平くん、彼女ができたの?」
「はい。四月に転校してきた子なんですけど、補習中は毎日、こいつのために弁当を作ってきてたみたいで。な、コウ?」
訳知り顔で、ゴーが補足をくわえている。幸が、ニヤニヤとからかうような笑みを浮かべていた。
「たしかに、弁当は作ってもらいましたけど……。というか、ゴー、おまえ、なんでそんなこと知ってるんだよ。補習に来てないのに」
「徹子に聞いたんだよ。マリア先輩って、委員長のことだろ?」
ぬう、委員長がリークしていたのか。そういえば、こいつは、例の噂についてもしっかり把握してたんだよなあ。おそるべし、ゴーの情報網。
「ふうん、そうなんだ……。公平くんに彼女が、ねえ」
いっしょになってからかわれるかと思ったが、静江さんは、どちらかというと呆然としている様子だった。よほど意外だったのだろうか。
「そ、その、ほんとうに、彼女ってわけじゃないです。たんに、最近、仲よくしてもらっているってだけで」
「そうそう、毎日ふたりで帰って、仲よくお弁当の材料を買ってんの。彼女ってか、もう夫婦?」
じつに絶妙なタイミングで、幸が混ぜっかえしてきた。たちまち、顔が熱くなってしまった。なんだか、説明すればするほどドツボにはまっていく気がする。
それからしばらくは、勉強もそっちのけで、静江さんに、堤さんについての説明をする破目になった。
「ああ、あの背がたかくて、かわいい顔した子」
どうやら、静江さんは、堤さんに会ったことがあるようだった。聞けば、以前、委員長といっしょに、この家に遊びに来たことがあるのだという。
「へえ、公平くんも隅に置けないわね。あんなかわいい子を彼女にするなんて」
「で、ですから、堤さんは彼女というわけではないんです。いっしょに帰ったり、買い物をしたりすることがあるだけで」
静江さんは、笑顔で話を聞いてくれていた。
ただ、なぜなのかはよくわからないが、ときどきふっと遠くを見るような目をしていた。




