第八十一話 八月三日(金)夕方
「廣井さん、帰ろう」
授業がおわると、堤さんが呼びにきてくれた。僕はすぐにあと片付けをすませ、席をたった。
「じゃあね、ココちゃん、廣井くんも」
教室の出口にさしかかったところで、委員長が声をかけてくれた。僕たちは、ふたりならんで別れの挨拶をして、そのまま歩き出した。
この一ヶ月は、こうして堤さんと下校をともにすることが多かった。というより、ほぼ毎日そうしているといっていいほどだった。
買い物を手伝う日にいっしょに帰るのは、二度手間をふせぐという意味で当然である。だが、それ以外の日にも、僕は彼女を自宅のマンションまで送っている。
先月、はじめて堤さんと帰ったのは、もともとそういう約束になっていたからだった。その日は学級委員の仕事がなかったので、幸があたりまえのように『いっしょに帰ろう』といってきた。僕はそれを断った。
よこから堤さんが現れて、僕を下校に誘ってきたとき、幸がふしぎそうな顔をしていたのをおぼえている。
つぎの日は、学級委員の仕事で遅くなった僕を、堤さんはなぜか待っていてくれた。約束はしていなかったのだが、誘われるまま、やはり下校をともにすることになった。
そのときに、隣にいたのは委員長で、彼女もまた、どこか腑におちないというような表情をうかべていた。
二日いっしょ帰ると、三日めからは、それが当然であるかのような雰囲気がただよいはじめ、一週間つづくと、こんどはほかのクラスメイト、とくに女子たちの、僕と堤さんを見る目がかわってきた。
ふたりでいる時間がすこしづつ長くなり、やがて昼食もいっしょにとるようになった。僕か、あるいは彼女の席で、向かいあって食べるのである。むだ話をして、笑いあったりもする。
もしかしたら、堤さんは僕のことを?
勘違いかもしれない。それでも、そんなふうに感じてしまうようになってきた。
八月が近くなったある日の昼休みに、僕と堤さん、幸と委員長の四人で昼食をとったことがあった。そこで、はじめて『なぜ、最近ふたりでいっしょに帰っているのか』と尋ねられた。
どうやら、堤さんは、そのときまで、幸たちになにも説明していなかったらしい。べつに、隠すようなことでもないと思ったので、僕は正直に『食料品の買出しを手伝っている』と答えた。もちろん、おおまかな経緯――道でぶつかったとき、はずみで抱きしめてしまったことはのぞく――の説明もこみである。
とたんに、二人がかりでからかわれた。ラブラブだとか、結婚式に招待してくれというようなことも言われた。いつものように、僕はあわてて釈明し、墓穴を掘り、笑いの種にされた。
いっぽう、堤さんはといえば、そのあいだ一言もしゃべらなかった。ただ、真っ赤になってうつむいていただけである。
幸と委員長は、そんな彼女の様子に気づいたのか、軽く目配せをしあった。そのとき、僕はてっきり、堤さんのほうにからかいが飛び火すると思ったのだが、なぜかそういう事態にはならず、むしろすぐにべつの話題にうつってしまった。
ふたりの態度は、まるで『図星をつかれて途方にくれている相手に配慮して、それ以上はなにもいわないことにした』かのようだった。そして、きっかけがそれだったとは断言できないものの、その翌日あたりには、クラスみんなの僕と堤さんを見る目が、完全に、公認のなにかといった感じのものに変化していた。
「……でも、でもね。うまく片手だけで処理するの、むずかしいんだよ。小学生のころ、練習してたら止まらなくなっちゃって、ものすごくいっぱい割っちゃったことがあるの。そのときは、一週間たまご料理をつづけて、家族から嫌な顔されちゃった」
「へえ、一週間も。それは、作るほうも飽きちゃったんじゃない? 」
帰りの道すがら、堤さんは、さきほどから楽しそうに料理の話をしている。彼女の話は、僕のような厨房にたつ習慣のない人間にも、わかりやすいものだった。つまり、失敗談である。
堤さんの料理の腕前は、なんども弁当を作ってもらっているから知っている。はっきりいって、どこに出しても恥ずかしくないと太鼓判を押せるレベルだ。それが、失敗の話ばかりしているのである。
よく、美人は性格が悪いだの、傲慢だのといわれるが、堤さんにたいしてはまったく当てはまらない俗説である。彼女には、ちょっとしたきっかけで、すぐにおどおどしたような態度になってしまうところがあり、むしろ自己評価が低すぎるのではと、心配になってしまうことがあるほどなのだ。
気がつくと、堤さんのマンションについていた。
「あの……。また電話するね。あしたのこととか」
あすは、ふたりで食料品の買出しをする日である。もっとも、そんな約束とは関係なく、彼女とは、毎日、電話をしていたりする。最近は、寝るまえに堤さんの声を聞かないと、落ち着かないような気分になるのだ。
「うん。じゃあ、あとで」
名残おしいと思った。毎日会っているのに、別れぎわにはいつもこんな気持ちになる。そして、夜に電話で彼女の声を聞くと、ほっとするのである。
自分のことが、僕にはわからなくなっていた。