第七十八話 八月三日(金)昼休み 1
学校につくと、もう余裕はなかった。
進学希望者むけの特別補習というのは、伊達ではないのである。内容は濃く、難度も高い。いちおう、きちんと家で予復習はしているのだが、それでも、あいた時間には、次の授業範囲の見直しをしなければならないほどなのだ。
おかげで、朝はおろか、授業のあいまの十分休みも慌しくつぶれてしまい、またたくまにという感じで昼になった。
さすがに、昼休みは、食事をふくめ、きちんと休憩することのできる時間である。午後になれば、ふたたびみっちりと授業がおこなわれるとはいえ、つかのまの息抜きとでもいうように、クラスには、弛緩した空気がただよっていた。
「廣井さん、あの、お昼……」
うしろから、声をかけられた。堤さんが、昼食の誘いにきてくれたのである。
今日の彼女の服装は、涼しげな水色のワンピースである。スカートのまえあたりで両手を組んでいて、なんともほのぼのとした感じのほほえみを浮かべていた。
「ちょっとまって。いま行くから」
すぐに、筆記用具を片付けて、僕は席をたった。
「安倍さんもいっしょに食べたいんだって。いい?」
「委員長が? ああ、こっちはかまわないよ」
自分の座る椅子を確保しつつ、僕は堤さんのあとについて、委員長の席へとむかった。
見れば、机はすでにくっつけられていて、弁当箱がみっつ、そのうえに置かれている。委員長は、自分の椅子に腰をおろしており、片手で頬杖をついて、どこかぼんやりとした様子で、こちらをながめていた。
ひとまず、僕たちも席についた。
「どうぞ、廣井さん」
堤さんが、弁当箱のなかから、ひときわおおきなものを選んで手渡してくれた。
「いつもありがとう、堤さん」
笑顔でお礼をいうと、彼女は恥ずかしそうにうつむいた。
「毎日、よくがんばるわねえ……」
苦笑したように、委員長がいった。なかば、呆れているといったふうでもある。
「そんな、安倍さん。いつも重たいものを持ってもらってるんだから、これぐらいするのは当然です」
「いつも、かあ。ふうん……。ねえ、ココちゃん、廣井くんにお買い物を手伝ってもらってるんだよね?」
ふたりが、なごやかに会話をはじめた。話題は、僕の食べる弁当にかんすることだ。
じつは、この弁当は、堤さんが僕のために作ってくれたものなのである。それも、今日だけのことではない。なんと、補習がはじまってから、ずっとそうしてくれているのだ。
このところ、僕は週に三回のペースで、堤さんと食料品の買出しをしている。商店街で、彼女がナンパなどに煩わされたりしないようにとはじめたことだったが、最近では、荷物もちという面が強くなってきていた。
なにしろ、堤さんが購入するのは、一家全員ぶんの食料なのだ。お父さんは、仕事のつごうで家にいないことが多く、実質、女性ふたりぶんということになるが、一日三食ともなれば、必要な材料は、やはり相応の量になる。
もちろん、僕は男だから、少々の荷物を持つぐらいはどうということもない。しかし、堤さんは気がひけるようで、お礼をしたいと言ってくれた。それが、毎日の弁当作りだったというわけだ。
「まあ、買うのは食料品だけじゃないからね。女の子ひとりじゃ、なかなか大変だと思うよ」
軽く、フォローを入れてみた。堤さんは、ご両親が共働ということもあり、家内管理のいっさいを任されているらしいのだ。そのため、日用品のたぐいを購入することもままあった。
「ほんとうに、助かってます。廣井さんって、すごいんですよ。体は細いけど、力持ちで」
いくら背が高いといっても、堤さんは女の子である。力は、男よりはずっと弱い。彼女が、持ち上げるのに苦労する荷物を、僕があっさりと運んでのけたりというようなこともあるのだ。
「そりゃあ、これでも男だからね。腕力だってちょっとはあるよ」
ふんとばかり、僕は腕を折りまげて力こぶを作ってみせた。われながら貧相な二の腕ではあるが、それでも、ふくらみがないわけではない。
「わあ、力こぶ」
いって、堤さんが手をのばしてきた。彼女の、身長のわりにちいさな掌が、こちらの半袖からのぞく素肌を撫でている。冷え性なのだろうか。すこしひんやりとしていて、気持ちよかった。
「あっ、硬い。カチカチ」
肩のあたりから、肘まで撫でまわされてしまった。
「わりと鍛えてるからね。腕立て伏せなら百回はいけるよ」
「すごい……。こころ、腕立て伏せなんて、十回もできないです」
こちらの腕から手をはなし、こんどは堤さんが、自分の腕をくいと折りまげた。どうやら、力こぶを作ろうとしているようだ。見た感じ、まったくふくらんではいないようだが……。
「へえ、どれどれ」
僕は彼女の力こぶを確認するべく、二の腕にふれてみることにした。
ぷに。ぷにぷにぷに。
お……おおっ? や、やわらかいな。
彼女の二の腕の感触は、おなじ人間とは思えないような柔らかなものだった。まさか、堤さんには筋肉がないのだろうか?
いや、おちつけ。いくらなんでも、そんなことはありえない。そもそも、人体は骨と腱によって連結され、筋肉によって制御されているのだ。脂肪にそのような作用はない。
だが、ならば、この柔らかさはなんとしたことだ。堤さんの体は、いったいどうなっているのだろう。
うっわー、しかし、やわらかいなあ。
肌もすべすべとしていて、ずっとふれていたいと思わせるような心地よさがある。しらず、僕は堤さんの腕を、揉みほぐすようにして触ってしまっていた。
「もう、くすぐったいよ、廣井さん」
笑いながら、堤さんがいった。
「ご、ごめん」
あわてて、僕は相手の腕から手を離した。それから、ふたりして顔を見あわせた。自然と、笑みがこぼれてくる。なんだかとても楽しい。
「えへんえへん。おほん」
突然、よこから咳払いが聞こえてきた。ふいのことだったので、すこしびっくりしてしまった。
「な、え? 委員長、どうしたの?」
「えーっとですねえ、廣井くん、ココちゃん。そういうことは、あんまり人前ではなさらないほうがよろしいのではないかと思いますよ?」
そういうこと? はて、どういう意味だろう。委員長は笑顔ではあるものの、どこかしらいつもと様子が違って見えた。
あれ? そういえばさっきから、みょうに視線を感じるぞ。堤さんも、おかしな雰囲気に気づいたのか、あたりをきょろきょろと見回している。
クラスの男子も女子も、こちらのほうを見て、なにかひそひそ話しあっているようだ。いったいどうしたのだろう。
「いえね、ふたりの仲がおよろしいのは、全然かまわないんですよ? でも、そんなふうに、あからさまにいちゃいちゃされると、見ているほうもいろいろと」
いちゃいちゃという単語を聞いて、やっと、委員長の言わんとすることが理解できた。とたんに、顔が熱くなった。横目で堤さんをうかがうと、むこうも毛穴から蒸気が出そうなほど赤くなっている。
これでは、認めているようなものだと思った。
「た、食べましょう」
いきなり、堤さんが弁当箱の蓋をあけた。
「うん、食べよう。いただきます」
いそぎ、僕も蓋をあけた。
ちいさく、委員長がため息をつくのが聞こえた。