ガールズ・サイド 堤こころ
お母さん。
……おかあ、さん。
大好きなお母さんに、話しかけてみた。困ったとき、いつもそうしてきたように。お母さんは、じっとわたしを見つめていた。
「どうしたの、こころ。なにか、心配なことでもあるの?」
心配なこととは、すこしちがう。だけど、こんな気持ちになったのははじめてのことで、自分のことがよくわからないのだ。
あのひとのことを、お母さんに聞かせてみることにした。廣井公平さん。転校してきたわたしに、いつも親切にしてくれた男の子。背が高くて、すこし痩せていて、物腰がおだやかなひと。
副学級委員をしていて、テストの成績がいい。休み時間には、クラスメイトに、勉強について、教えている姿を見ることもある。
彼は、おなじ学級委員の安倍さんか、さもなければ、幼なじみだという宇佐美さんとつきあうのではないか。そんな話が、クラスの女の子たちのあいだでささやかれていた。
安倍さんと宇佐美さんは、転校してきたわたしと、最初にお友だちになってくれたひとたちだ。廣井さんがわたしに話しかけてくれたのは、たぶん、ふたりが近くにいてくれたからだったと思う。
「おやおや、めずらしいね。こころがそういう話をするなんて」
いままで、お母さんに、男の子の話をしたことはなかった。
子供のころから、わたしは男のひとが怖かった。小学生のときはまだよかったけど、中学生になって、周囲に声変わりをするような子が増えると、クラスの男の子と、満足に言葉をかわすこともできなくなった。
理由は、よくわからない。とにかく、体がすくんで動けなくなってしまうのだ。姿を見るぐらいならそれほどでもないけど、おおきな声を聞いたり、体に触れられたりすると、どうしようもなくなってしまう。恐怖でわけがわからなくなり、女の子の友だちに慰めてもらったりしていたのだ。
わたしだって、できれば男の子と仲よくなってみたかったのに。
三ノ杜学園に転校することになり、この機会に、自分を変えてみようと思った。だから、始業式では目立つかっこうもしてみたし、クラスのみんな、男の子たちにも、手作りクッキーを配ったりしてみた。それでも、だめだった。錦織さん――ふつうに、話しかけてくれただけだったのに――の声におどろいて、つい泣いてしまったのだ。
以来、男の子たちはみんな、わたしに遠慮するようになってしまった。
やっぱり、わたしには無理なのかな。結局、まえとおなじになってしまうのかな。そう思っていたけど、廣井さんだけは、わたしにしたしく話しかけてくれた。
廣井さんは、おおきな声をださないひとだ。いつもおだやかで、そしてやさしい。わたしの見間違いが原因で、クラスにおかしな噂が流れたときも、笑ってすぐに許してくれた。
それと、噂のことがわかる前日に、ひょんなことから彼に抱きしめられてしまったこともあった。商店街で、しらない男のひとたちに声をかけられ、怖くなって逃げだしてしまったときのことだ。そのときのわたしには、周囲を見る余裕もなく、道の曲がり角で、ちょうど通りすがった廣井さんにぶつかりそうになってしまった。
ところが、廣井さんはそれをうまく避けて、転ばないようにわたしを庇ってくれたのだ。
こちらが走ってきていて、勢いがついていたはずなのに、バランスを崩したりすることもなかった。まるで、事前にそうなることがわかっていたみたいに、しっかりとわたしを受けとめてくれた。
気がつくと、彼の腕のなかにいたという感じだったけど、ふしぎと怖いとは感じなかった。むしろ、このままずっと抱きしめていて欲しいとすら思った。
痩せた外見とはうらはらに、触れてみると、廣井さんの体は引き締まっていて、思っていたよりずっとたくましく感じられた。
そして、廣井さんは、あのときなぜか、わたしの頭を撫でてくれた。それも、うれしかった。くすぐったいような感触が、とても心地よかったのだ。
あれをきっかけに、廣井さんといっしょにいる時間が長くなりはじめた。お買い物を手伝ってくれるし、夜には電話でお話をしたりもする。
とくに、彼としゃべっていると、時間を忘れてしまうことがなんどもあった。気持ちが安らぐのだ。男の子と話をして安心するというのは、はじめての経験だった。
また、廣井さんに抱きしめられてみたい。頭を撫でられてみたい。このところ、自分のなかで、そんな気持ちがふくらんでいくのを感じていた。
「こころ……。そのひとのことを、好きになったんだね」
好き? これが、男の子を好きになるということなのかな。わたしは、廣井さんのことが好き。好き……。ああ、たしかに。しっくりとくる。
そうか、わたしは廣井さんのことが好きなんだ。
「よしよし、かわいいこころ。男の子はね、お料理の上手な女が好きなんだよ。その子のために、お弁当を作っておあげ。そうしたら、きっとおまえのことを好きになってくれるから」
お弁当を……うん、いいかもしれない。でも、どうしよう。かってにそんなことをして、余計なことをとか、思われないかな。
「いっしょにお買い物をするときにでも、相手にそれとなく好きな食べ物を聞いてごらん。そして、いつも手伝ってくれるお礼に、お弁当を作ってあげると持ちかけるの。そうすれば、きっと断らないから」
なるほど、いい考えだと思った。ああ、お母さんはすごいな。わたしが困っていると、すぐに助けてくれる。わたしのことを、なんでもわかってくれる。
思わず、わたしはお母さんに抱きついてしまった。そうして、幼いころのように甘えてみた。
もう、ちいさな子供ではない。背も高くなったし、どちらかといえば、大柄な女といってもいいぐらいだ。自分の姿が滑稽だと、すこし思った。
――いつのまにか、わたしはお母さんを抱きしめたまま、眠ってしまっていた。