第七十六話 七月九日(月)夜
堤さんの話がおわると、以降はとくに不愉快な言動をされることはなかった。ふだんどおりの、かわいいあすかである。
今日は、商店街などへの移動はせずに、ずっとベンチに座って、たわいない雑談をしてすごした。この子があらわれたときには、本が読めるほど明るかった空が、いまではすっかり夜の色に染まっている。
時計を見ると、すでに午後七時をまわっていた。
「ねえ、あすか。抱きしめられるのは好き?」
なんとなく、たずねてみた。
会うたびに、あすかは僕に抱きついてくる。そして、頭をなでると嬉しそうな顔をする。
それがあったから、昨日、混乱した堤さんを抱きしめて、落ちつかせることができたのだ。
「だいすき。こうするとね、すっごく安心するんだ」
いって、あすかはこちらの胸のあたりに顔を押しつけてきた。気分よさそうに、頬ずりをしている。お返しに、僕は相手の頭をゆっくりとなでてやった。
「アタシんち、パパがずっと仕事でいそがしかったからさ。子供のころに、こうして抱きしめてもらったことって、ほとんどなかったんだよ?」
「……そう」
いくぶんゆっくりめの、どこか幼さを感じさせる口調で、あすかはつづけた。
「ううん、ほんとうはね、なんども抱きしめてもらったことがあったはずなんだ。だけど、アタシ、ぜんぜん覚えてないの。こうしてると、それが思い出せるような気がする」
抱きつく力が、ほんのすこしだけ強くなった。
「ちっちゃなころ、パパがいつも家にいないから、会社にあいにいこうと思って、ひとりで外に出たことがあるんだ。なんか、バカみたいだよね。仕事してるところに、子供が出かけていっても、じゃまなだけなのに」
目をとじて、あすかはまるで夢を見ているような表情をうかべている。
「しかも、道がわかんないから、そのまま迷子になっちゃって。それで、心配かけるなっていわれて、あとでいっぱい怒られちゃった。パパ、あすかのために仕事を休んでくれたんだよ。いつも、いそがしくて大変だってわかってたはずなのに。迷惑かけて、ほんと、バカみたい」
おだやかな声音だった。そして、だからこそ、彼女が心にかかえた思いの深さが、伝わってくるような気がした。
この子は、さびしかったのだ。それも、ちいさなころからずっと。仲の悪い両親。家にいない父親。そういったことのすべてが、あすかの心を静かに追いつめてしまっていたのだ。
たとえ、直接の理由ではないにせよ、あすかが死ぬようなことをしてしまったのは、そのせいなのだと思った。
もちろん、あすかの父親も、好きでいそがしく働いていたわけではないだろう。むしろ、本人なりに、家族を守るために必死だったはずだ。それが、結果的にこの子を傷つけ、死なせてしまった。
やりきれない。
こんな、やりきれないことがあるだろうか。もし、僕が、ひとの親になるようなことがあったとしても、子供にそんな思いはさせたくない。
否、絶対に、させるものか。
固く、僕はそう心に誓った。
「でもね、そのあとで、パパはあすかを抱きしめてくれたんだよ。うれしかったな……」
あすかの声を聞きながら、僕は夜空を見あげていた。
悲しげに、星がゆらめいていた。
<第四章・了>