第七十三話 七月九日(月)夕方
放課後である。僕はひとり、帰路についていた。今日は、幸におそくなる用事があり、また学級委員の仕事がなかったので、委員長ともいっしょにならなかったのだ。
ちょうどいいので、すこし早めの時間ではあるが、いつもの公園にむかうことにした。あすかと会うためである。
季節柄というべきか、時間帯は夕方なのに、午後と形容したほうがいいと思えるほど、外は明るかった。公園にたどりついても、暗くなる気配すらない。
例によって、あたりにはひとけがなかった。ぼんやりまっているのも暇なので、僕はベンチに腰をかけて、読書をすることにした。土曜の帰りしなに、委員長から借りたものである。いざ読もうと思ったときに、幸から電話がかかってきたり、そのごも、徹子ちゃんのことや堤さんのことなどがあって、ざっと目を通すことさえできていなかったのだ。
本は、タイムパラドクスをテーマにしたSFの解説書だった。委員長が、ループものの小説の構想を練る際に、資料にしていたものである。彼女によると、内容もさるものながら、読み物としてもおもしろかったそうで、聞いていて興味を惹かれていたのだ。
そもそも、タイムパラドクスとは『時間の因果にかんして矛盾があるように見えること』である。
たとえば、だれか未来人が過去にいって、人類の直接的祖先にあたる小動物を殺してしまったとしよう。
すると、その小動物の子孫は途絶えてしまい、結果、人類も存在できなくなってしまう。
ところが、人類が存在できないとなると、こんどはくだんの小動物を殺すはずだった未来人も、生まれることができなくなってしまうわけだ。これが、タイムパラドクスである。
物語を作るのであれば、こういった矛盾をうまく解消しなければならない。それには、いくつかの方法があった。
まずは平行世界、いわゆるパラレルワールドの発生である。過去を変えると、その時点で世界が分岐し、もともとの世界とはべつに、それに似たすこしだけ違う世界が作られるというものだ。
さきの未来人の例でいえば、人類が誕生する世界とそうでない世界とに分岐するということである。この場合、祖先を殺してしまった主人公がどうなるかで、ドラマがつくれるだろう。もとの世界にもどれるのか、あるいは人間がだれもいない未来にとりのこされ、ひとりで生きていくのかでも、結末はかわってくるはずだ。
また、過去を変えても結局は似たような世界になるという手法もある。こちらは、未来人がヒトの祖先を殺したとしても、べつの生き物がおなじような位置をしめる種に進化するという展開になる。
もちろん、似たようなといっても、姿は本来の人類とは違うものになっているだろうから、主人公たる祖先殺しの未来人は、その世界では畸形のような扱いをされるのかもしれない。
ほかに、未来人が人為的にタイムパラドクスを引き起こそうとしても、運命のような修正力がはたらいて、行動そのものが失敗するとか妨害されるとかいうような展開になる場合もある。
委員長が、自分の小説で書こうとしたのは、このタイプだろう。彼女は恋人の死というシリアスなネタでそれをやるつもりだったようだが、本では失敗つづきの未来人といった感じのスラップスティックコメディが、例として記されていた。
解説書というだけあって、さすがに理詰めな内容の本である。文体は、おおむね平易ながら、ところどころでかなり頭を使わされたりもする。
しかし、そういう部分にも、あたかもパズルを組みたてるようなおもしろさがあり、いつしか僕は公園に来た用件も忘れて、夢中になって文章を追いかけていた。
――と、ふいに視界がさえぎられた。
なにかひんやりとしたものが、瞼のあたりに当てられているようだ。冷たいが、むしろ心地いいとも思えた。
「だぁーれだ」
苦笑しつつ、僕は本をとじた。それから、その冷たいなにか――-ちいさな掌に、自分の手をあてた。瞼から外すのに、ほとんど力は必要なかった。
これは、あすかの手だ。こんどは、ほんとうに、まちがいなくあすかである。
「こーへーぃ」
甘えたような声をだして、あすかがうしろから抱きついてきた。と思ったら、すぐに体を離し、ベンチの背もたれを乗り越えて、隣に腰をおろした。そうして、顔を僕の胸のあたりに押しつけてきた。
肩を抱くようにして、頭を撫でてやると、あすかはうれしそうに頬ずりをしてきた。
しばらくはそのままだったが、思うところがあり、僕は、相手の顎のあたりに片手をそえて、上体をおこさせてみた。
顔を、じっと見つめてみた。
「なぁに? キスでもしたい?」
彼女とキスをしたことはないし、いまもそんなことをするつもりはない。ただ、この顔である。
年相応に幼いが、よく整っている。もうすこし成長したら、かなりの美人になるだろうと思わせるような、凛々しくうつくしい顔だった。
「……えっ、ほ、ほんとにするの?」
とまどったように、あすかがいった。いけない、無言でじっと見つめていたせいで、おかしな雰囲気になってしまったようだ。
「いや……綺麗な顔だと思ってさ」
できるだけ、気障に見えるようにそういうと、からかわれたとでも思ったのか、あすかは頬をぷくっとふくらませた。だが、すぐに噴きだすと、上機嫌そうな笑顔をうかべた。
「ねえ、公平、今週はどんな一週間だった? 女の子と仲よくなれた?」
その言葉を聞いたとたん、僕の脳裏に堤さんの姿が思い浮かんだ。
堤さんとは、仲よくなれた気がする。抱きあったのはさておくとしても、いっしょに食料品の買出しをする約束をしたのと、携帯の電話番号やメールアドレスを交換しあったのは、自分のなかで、かなりインパクトのあるできごとだったと思える。
なのに、僕はそれを、あすかに正直に伝えることができなかった。
ことがほかの女子、たとえば、幸や委員長とのあいだに起こっていたのなら、とくに気にはしなかっただろう。堤さんだから、問題なのだ。
「うーん、たいしたことは……。女の子と仲よくなれるようなイベントなんて、そうそう見つからないよ」
ひとまず、ごまかしてみた。
「せっかくの夏なのに、なにいってんの。公平が女の子とつきあわなかったら、アタシだって成仏できないんだからさ、しっかりしてよぉ」
あすかが、くちびるを鼈のくちばしのように尖らせているる。彼女の言いように、僕は苦笑してしまった。
この子は、僕をしあわせにする奉仕作業のために、現世に来ているはずである。ところが、実際にやっていることといえば、たわいないおしゃべりをして、抱きついて、泣いて、笑って、ただそれだけなのだ。
まあ、それはそれで、べつにかまわないのだけどな。こうして、いっしょに過ごしているだけでも、充分にしあわせな気持ちになれるわけだし。
幽霊であっても、あすかは僕の大事な友だちだった。




