第七十一話 七月九日(月)朝
あけて月曜の朝、通学の時間である。いつもの待ちあわせ場所におもむくと、すでに、幸とゴーが来ていた。徹子ちゃんもいっしょだった。
「公平、おはよ」
幸が挨拶してきた。
おとといの電話について、思うところがまったくなくなったわけではない。だが、そのことで、こちらから幸になにか言うつもりはなかった。
彼女は僕を心配して、ああいうことをいったのだ。感情面では、いくばくかのしこりが残っているが、頭ではきちんとそのことが理解できている。
いまは、蛍子さんに言われたように、ふだんどおりのやり方で接すればそれでいい。屈託は、時間がたてばやがて消える。
「いやぁー、タケちゃんから聞いたんだけどさ、あの噂のこと」
すまなそうに、幸がいった。
「ほんと、ごめんな、公平。アタシ、信用できるひとにその話を聞いたもんだから、てっきり事実だって思いこんじゃったんだ」
両手をあわせ、拝むようにあやまられた。ごめん、ごめんと、なんども繰り返された。
ふうん、信用できるひとねえ。こちらのいうことは、まるで信じなかったくせに。
つい、そんなふうに思いかけてしまい、僕はあわてて自分を戒めた。
まったく、僕はアホか。なにを拗ねたようなことを考えているのだ。幸は、こちらを心配してくれていたんだぞ。
「なんか、疑ったみたいになって、悪かったよ。ほんとに、ごめん」
「気にしなくていいよ。それより、はやく学校にいこう」
全員で歩きはじめると、幸が、あたりまえのような顔で、こちらの手をにぎってきた。
人通りが多い場所で、はぐれないようにということならともかく、通学時にそんなことをするのはめずらしい。だが、僕は彼女の行動について、とくに不審には感じなかった。いつもの気まぐれではないと思えたからだ。
おそらく、幸なりの仲直りのしるしというか、謝罪の気持ちをこめての行為なのだろう。こうすればこちらが喜ぶと、彼女はわかっているのである。
そもそも、通学路でということがめずらしいだけで、むこうから手をつないでくるということ自体は、そこまで例のないことではなかった。抱きついたり、キスをしたりというのも同様である。たいていは、幸のほうからしてくるのだ。
むしろ、僕からというのは、ほとんどなかったと言ってもいいぐらいかもしれない。
ちいさなころは、それほどでもなかったのだが、ある時期――ありていにいえば、性に目覚めたあたり――から、僕は自然に幸にふれることができなくなった。どうしても緊張してしまい、体が固まってしまうのである。逆に、むこうから触られるのは平気だった。心が落ちつくのである。
ほかの女子にたいしては、程度の差こそあれ、そこまで意識することはない。その気になれば、堤さん相手にそうしたように、自分から抱きしめることだってできる。
きっと、幸だから特別なのだ。なんとなく僕はそう思った。
校門のちかくまで手をつないで歩き、なにげなく離れたあとは、もうふだんとかわらなくなっていた。徹子ちゃんとわかれ、下駄箱で靴を履き替えると、僕たちは自分の教室へとむかった。
二年二組である。談笑しつつ、僕が教室の引き戸をあけた瞬間だった。
いきなり、クラス中の視線がこちらに集中してきた。
おお? いったい、なにごとだ? 僕は思わずまごついてしまった。
「来たきた。それじゃ、わたしたちが代表して謝っておくから」
視線の中心で、委員長がみんなになにか言っている。異様な雰囲気だった。とくに、様子がおかしいのが、女子たちである。顔をふせ、ちらちらとこちらをうかがっている子がいる。そうかと思えば、あからさまな好奇の目をむけてくる子もいる。
委員長が、堤さんとならんでこちらに寄ってきた。教室の入り口に突っ立っていても邪魔なので、とりあえず、僕たちもなかにはいることにした。
「耀子ちゃん、ココも、どうしたん?」
挨拶もそこそこに、幸がたずねた。委員長が、ふうとため息をついた。堤さんは、もじもじとしていて、所在なさげな様子である。
「うさっちや錦織くんもしってると思うけど、廣井くんの噂のこと。大事になりかけてたの」
「おおごと?」
よこで、ゴーがふしぎそうな声をあげた。委員長は、いつもおだやかな彼女にしてはめずらしく、厳しい表情をうかべている。
「じつは、けさのことなんだけど……。わたしが学校にきたら、いきなりみんなから『廣井くんが退学になった』と聞かされて」
……は? 退学?
なぜ、僕が退学にならなきゃいけないんだ?
「いったいどういうこと? 意味がわからないんだけど」
「うーん、なんていうか……。この週末のあいだに、廣井くんが、他校の女子を孕ませたという内容の噂が広まってたみたいなのよ。で、それが発覚して退学になったという流れに」
ハラマセタ? 聞きなれない響きの言葉に、僕はきょとんとした。
ええと、はらませたとは、女性が胎内に子を宿すという意味の言葉『はらむ』の使役態『はらませる』を 過去形にしたもの。活用は、はらまず、はらみし、はらむ、はらむとき、はらめば、はらめ、かな。
ということは、この場合、僕が他校の女子の胎内に子を宿らせ……。
待て。まてぇい。なんじゃあそりゃあ。
となりで、幸がぽかんと口をあけていた。ゴーが、僕の肩をぽんとたたいた。そちらを見ると、相手は半笑いのような、なんとも微妙な表情をうかべていた。
「わたしもびっくりしちゃったから、みんなにくわしい話を聞いてみたんだけど……。どうも、土曜の放課後から噂が広がりはじめてたみたいなの。ほら、ふたりで、委員の仕事をしてた時間帯」
「おれも、そのあたりの時間に聞いたぞ、噂。内容は、ずいぶんと変化してるようだが」
ゴーがまえに出てきて、委員長と状況の整理をしはじめた。ふたりの会話を聞きながら、僕は呆れてしまっていた。
土曜日に、幸に聞いたのは『街中でいちゃついていた』だけだったはずだ。それが、日曜日には『熱烈なキスをかわしていた』になり、さらに月曜日に学校にきてみれば『相手の女が妊娠して退学』か。だんだんとエスカレートしていくな。そのうち、結婚したとか離婚したとかいわれるんじゃないか。
「噂が広まっていたのはわかったけど、結局、なんでそんなことになったのさ?」
僕がそういうと、こんどは堤さんがまえに出てきた。
「あの、あの、ご、ご、ごめんなしゃい。こころが、その噂の最初なんです」
「えっ、堤さんが?」
堤さんは、泣きそうな顔をしていた。声もおどおどとしていて、消え入りそうにちいさなものだった。
「こころ、先週の月曜日に、街で廣井さんを見かけたんです。いえ、そのときはそう思ったけど、勘違いでした。その男の子は、彼女さんみたいな女の子といっしょでした。ふたり、寄りそうようにして、仲よく歩いていました」
先週の月曜日……。
「アタシはそれ、土曜にココから話してもらったんだ。けど、聞いたのは放課後じゃないよ? 二時間めの休み時間だったかな」
ありゃ、なんだ。幸のいっていた『信用できるひと』って、堤さんのことだったのか。
「で、でも、こころ、宇佐美さんのほかに、このこと言ってないよ」
「あ、うさっちとココちゃんがしゃべってるのを、よこで聞いていた子が何人かいますね」
しどろもどろな様子の堤さんを見かねたのか、委員長がフォローをいれてくれた。ふうむと、僕は思った。これで、ようやく話の全体像が見えてきたぞ。
つまり、土曜の休み時間に、堤さんが幸にした話を、よこで聞いていた何人かが、めいめいほかのだれかに伝えたというわけか。そしてそれが、あたかも伝言ゲームのようになってクラス中に広まっていったと。
ちょうど、僕と委員長が、放課後に、学級委員の仕事で教室を空けていたことや、あいだに日曜をはさんだこともあり、噂に歯止めが効かなくなったのだろう。話の内容がエスカレートしていったのも、それが原因というわけか。
「そっか、堤さんが最初だったんだ」
いわれてみれば、昨日、この噂について話したとき、堤さんの様子がすこしおかしかったような気もする。やれやれ、そういうことだったのか。
「ごめんね、廣井くん。ココちゃんを責めないであげて。見間違えなんて、だれにでもあるんだから。あと、ほかの子たちも、許してあげてね」
「ああ、ぜんぜんかまわないよ。ちゃんと、正直にあやまってもらったんだし」
すると、怯えたようにひきつっていた堤さんの表情が、ぱっと明るいものになった。このひとは、感情がほんとうにすなおに顔にでる。嘘がつけないタイプなのだ。彼女がいったことなら、幸があっさり信じてしまったのも、しかたないのかもしれない。
そのご、ようやく席についた僕のところに、あらためて数人の女子が謝りにやって来た。それで、この話は、ひとまずお終いということになった。