第六十九話 七月八日(日)夕方 4
そろそろ、うす暗くなりはじめていたので、僕は男のつとめとして、堤さんを家まで送っていくことにした。
聞けば、堤さんは、マンションの一室で、家族とともに暮らしているらしい。もっとも、母親は、ふだんから日付が変わるまで帰ってこないそうだし、父親にいたっては、いつも会社で寝泊りしているらしく、家にいるのは週に一日だけなのだという。
「だから、いま帰っても、おうちには、パパもママもいないの。ごめんね、ひとりで、男のひとを、お部屋にあげるわけにもいかないし」
いきなり、話が予想外な方向にむかいはじめた。
「は? ……あ、いや、そんなこと、ぜんぜん気にしなくていいよ」
なんとか、あたりさわりのない返事をすることはできたが、僕は完全に面食らってしまっていた。思考の裏をとられたというか、意表をつかれたというか、とにかく、ふしぎな違和感があった。
というのも、僕のなかに『堤さんの家にあげてもらう』という発想自体が存在していなかったのである。近い場所、せいぜいマンションの玄関あたりまで送って、そのまま帰るのが当然だと思っていたのだ。
なるほど、こういうとき、場合によっては相手の家でひと息つくことがありえるんだよな。そして、男女であれば、それを機会に恋愛的な意味での親睦が深まったりもするわけか。
知識として、そういうことがあると、わかっているつもりだったが、実感はなかった。
いちおう、女子を家まで送るのは、幸、あるいは徹子ちゃん相手になら、わりと頻繁にしていることである。ただ、そういうときに、男だからという理由で、なにか言われたことはなかった。前者は僕をほとんど家族あつかいしているし、後者にしても、年上と年下という関係性の違いはあれど、やはり似たようなものだからだ。
ところが、堤さんは、僕を異性として扱ってくれているのである。実際に、性別がちがっているのだから、そちらのほうがあたりまえといえばあたりまえなのだが、みょうにそれがうれしく思えた。
とはいえ、結局は、家に来るのを警戒されているのだから、よろこんでもしかたないのだけどな。
そう思い、僕は苦笑しかけた。だが、そこで、ふいにおかしな考えが頭をよぎった。
僕は、ほんとうに堤さんから警戒されているのだろうか。
むしろ『男を部屋にあげられない』というのは、こちらを異性として意識したうえでの発言ではないのだろうか。
だって、そうじゃないか。もし、こちらを警戒しているのであれば、まず、いま、こうしていっしょにいてくれるはずがない。さきほどの、ショックで混乱していたときならいざしらず、落ちついたら、ひとりで家に帰ってしまってもよかったはずだ。
さらにいえば、子供のころから男を怖がっていたとか、それについて罪悪感を覚えているとかいう話も、とりようによっては悩み相談のたぐいに思える。信用していない相手に、そんなことを言うだろうか。
なにより、うちのクラスにおいて、女子はべつにするとしても、僕は男子のなかでは、唯一、ふつうに堤さんと会話できる人間なのだ。どちらかといえば、相手から好感をもたれているといったほうが適切なのではないか。
――自分でも、論理が飛躍しはじめているのはわかっていた。目の前の女性にたいして、このようなつごうのいいことを考えるなど、舞いあがって冷静さをうしなっているとしかいいようがない。
それでも、僕はそのうぬぼれた考えに取り憑かれてしまっていた。そんなふうに、気持ちが押されてしまった理由には、いくつか思いあたることもあった。
直接的には、ゴーと蛍子さん、そして徹子ちゃんの関係を見て、恋愛というものを強く意識していたこと。さらに、偶然の事故とはいえ、堤さんを抱きしめてしまったことである。
間接的には、例の噂や幸の誤解、あるいはあすかの存在などもあるのかもしれない。
とにかく、気がつくと、僕はなかば熱に浮かされるように、あらぬことを口走ってしまっていた。
「ねえ、堤さん、今日はこんなことになっちゃったけど、あしたから、買い物はだいじょうぶ?」
こちらの発言の意図がわからなかったのか、堤さんがきょとんとしたように小首をかしげた。そのあまりにも無邪気そうなたたずまいに、僕は思わず素にもどってしまい、二の句をつぐのに躊躇したが、いったん口に出した以上、途中で言うのをやめるわけにもいかなくなった。
どうせ、こんなことは断られてもともとなのだ。気楽にいってしまえ。そう自分を奮いたたせ、僕は言葉をつづけた。
「よかったらさ、僕がいっしょにしてあげようか、買い物。荷物もちだってできるし、男がいっしょなら、ナンパだってされないと思うよ」
堤さんが、おおきく目を見開いた。そうして、二度、三度とまばたきをしたと思ったら、頬を赤らめてうつむいてしまった。
綺麗な顔である。そして、かわいらしい。ただうつくしいだけでなく、どこか放っておけない気持ちにさせる。堤さんは、そういう可憐さのある女性なのだ。
「どう?」
「はい、お願いします……」
うつむいたまま、堤さんが答えた。
ま、しかたないかと思った。そりゃあ、断るよな。食材の買出しなんて、ほとんど毎日のことだし。さて、こうなったら、なるべく引かれないですむように、しっかりとフォローを入れて……うん?
あれ?
いや、ちょっとまてよ、いま、堤さんはなんといった? 『はい、お願いします』といったような気がするのだが。
お願いしますというのは、拒絶の言葉……じゃないな。どちらかというと、その逆のはずだ。
……えっ、ということは、もしかして断られてない? 承諾?
「あの……。電話番号」
呆然としている僕を尻目に、堤さんが携帯を取りだした。どうやら、こちらの連絡先を登録したいようだ。
ちょ、おい、マジかよ。
いまいち状況は信じられなかったのだが、とりあえず、僕は彼女と、電話番号およびメールアドレスの交換をおこなった。赤外線である。確認しおえると、なんとなく気恥ずかしい気分になり、会話も途絶えてしまった。
しばらくは、そのままふたりして黙々と歩いた。
「あ、えっと、あそこがこころの住んでるマンションです」
ふいに、堤さんが前方を指さした。見ると、しめされたのは数年まえにできたばかりのあたらしいマンションだった。
このあたりは、三ノ杜学園成立前後に建築された建物がおおい。たしか、学園を経営するグループの会社が市内に移転してきたのにともない、そこで働く従業員や、その家族のための住居が建設されたというような流れだった気がする。
そこからマンションまでは、数分もかからなかった。
「で、では、ここまでで……」
マンションの玄関まえで、堤さんがぺこりとお辞儀をしてきた。
「ああ。じゃあ、またあしたね、堤さん」
いって、踵をかえしかけたところで、ふと思いついたことがあり、僕は彼女に聞いてみることにした。
「ごめん、ちょっとまって。堤さんって、お姉さんとか妹さんなんかはいる?」
「お姉さん? 妹? いないですけど……? こころは、ひとりっ子です」
ひとりっ子……。ふうむ、たしかにまえに見せてもらったアルバムにも、そういうのは写ってなかったしな。
ともあれ、僕は堤さんにあらためて挨拶をしなおすと、家路につくことにした。