第六十八話 七月八日(日)夕方 3
「こころ……。さっきのひとたちに、悪いことをしちゃったのかな」
堤さんが、よくわからないことを言いだした。
「悪い? いや、そういうふうには考えなくてもいいと思うけど」
目的の買い物を済ませたあと、彼女はなにごとか、考えに沈んででいる様子だった。どうしたのだろうかと不審に思っていたら、これである。
つまり、なにかされたわけでもないのに、かってに怖がってしまったのは、相手にたいして失礼だというのだ。
どうせ、くだんの男たちも下心があって声をかけたのだろうし、気をつかう必要はない。僕はそう思ったのだが、堤さんの考えはちがうようだった。
「あのね、こころ、ちいさなころからずっとそうだったの。男のひとのおおきな声を聞くと、体が固まって……。それで、まえの学校でも、クラスの子たちに心配されちゃってたの」
どうやら、堤さんが気に病んでいるのは、ナンパしてきた男たちについてのことだけではないようだった。むしろ、これまで自分に関わりのあった男性全体にたいしてのことなのかもしれない。
たしかに、いまの二年二組の男子も、堤さんには遠慮してしまっており、満足に話しかけることができない状態にある。僕自身、もし委員長にたのまれていなかったら、萎縮して距離をとってしまっていた可能性が高い。
考えすぎだと思ういっぽうで、堤さんのようなひとなら、そういった状況自体に罪悪感をおぼえてしまってもしかたがない気がした。
「三ノ杜市は、商店街がおおきいよね……。こころがまえに住んでいた町には、こんなにひと、いっぱいいなかったもん」
彼女があそこまで怯えてしまった理由のひとつに、ナンパをされること、すなわち『道を歩いていたら、知らない男が声をかけてくる』という状況そのものに、不慣れだったことがあるようだ。
なんでも、堤さんが以前すんでいた町は、かなりさびれており、若者もそこまで多くなかったそうで、三ノ杜市に引っ越してくるまでは、ナンパをされた経験が皆無だったらしい。
そのことを聞いて、僕はすこしほっとした。あるいは、過去にナンパにまつわる辛い思い出でもあるのではと心配していたのだが、ただの杞憂だったようだ。
「えっと……、ところで、廣井さん」
ふいに、堤さんが悪戯っぽい笑みをうかべた。
「もしかして、廣井さんは、女の子だったらだれでもあんなふうに抱きしめたりするんですか?」
なんだそりゃ。僕は苦笑した。
表情からして、たぶん、彼女はこちらをからかっているつもりなのだろう。逆に、自分自身への照れ隠しということもありえそうだ。
さっきはかなり、熱烈に抱きあっちゃったからなあ。
「さすがに、それはないよ。まあ、幸なんかは、ときどき、気まぐれで僕に抱きついてくることもあるけど」
「うふふ、やっぱり……え? うさ、え、ええっ?」
いきなり、堤さんが目を見開いた。なにか、みょうにあわてている様子である。
はて? 堤さんは、幸が僕に挨拶でキスをしたりすることも知っているはずだが。いまさら、抱きつくぐらいで、なんでこんなに反応しているのだろう?
「だ、だって、廣井さん、ちゃんと彼女さんがいるのに」
いいかけて、堤さんはひきつったような笑みをうかべた。
「そ、そっか、廣井さん、彼女さんとお付き合いしてるの、秘密にしようとしてるんですよね、ほんとに、いまでも宇佐美さんと抱きあってるわけじゃないですよね、う、う、浮気とかじゃないですよね、ね?」
……は?
ちょっとまて。いま堤さんはなんといった? 彼女さん? 浮気?
いったい、このひとはなにをいっているんだ?
思わず、混乱しかけた頭に、昨日の幸および今日のゴーの言葉がよみがえってきた。
例の噂話である。前者は、僕が街中で女と抱きあっていたというもの。後者は、それに加えて、キスをしていたというふうに話がふくらんでいた。
この口ぶりだと、堤さんも、あの噂をしっているわけか。
マジかよと思った。これでは、どこまで噂が広まっているのか、わかったもんじゃないな。
「ご、ごめんなしゃい。このことは、聞かなかったことにします……」
ひどくおろおろとした様子で、堤さんがいった。
落ちついてください、堤さん。そして、変な気を回さないでください。
ううむ、しかし、これはいまのうちに、きちんと誤解を解いておかないとまずいかもしれない。このままでは、彼女のなかで、僕が『恋人がいるにもかかわらず、ほかの女と抱きあっていることを公言する浮気性な男』ということになってしまう。
そう思い、僕はすぐに、真剣な表情をつくった。
「違うよ、堤さん。それって、僕が街中で女の子と抱きあっていたっていうあの噂のことでしょ? はっきりいって、根も葉もない話だよ」
それから、相手の目を見つめて、力強く言いきった。
「だいたい、僕はこれまでの人生で、いちども女の子とつきあったことがないんだ。彼女いない暦イコール年齢なんだから」
いってから、なぜ僕はこんななさけない話を、胸をはって女性に告白しているのだろうかと思った。
「え……ええ? だ、だって」
たいする堤さんは、口のあたりを手でおさえ、いかにも予想外なことを聞いたというように、こちらをまじまじと見つめている。この反応からすると、彼女はあの噂を、頭から信じこんでいたのかもしれない。
ほんとうに、すなおなひとだなあ。
「だれが言いだしたのかしらないけど、まったく困ったものだよ。なんだか、クラスのみんなも、おもしろがって噂を広めてるみたいでさ」
「あう、あう」
見るみるうちに、堤さんの顔が曇っていく。いや、そんなに落ちこんでもらう必要はないのだが。悪いのは彼女ではなく、見間違いでいいかげんな噂を流した人間である。
「スキャンダルに巻きこまれた芸能人って、こんな気分なのかねえ。まあ、僕の場合は、火のないところに煙がたったって感じだけどさ。ははっ」
ここで、目のまえの相手を責めるのは、こちらの本意ではない。なので、僕はわざと芸能人を引きあいにして、おおげさな言いかたをしてみた。苦笑でもしてもらえればと思ったのだが、堤さんは、どこか困ったような、神妙な表情をうかべただけだった。