第六十七話 七月八日(日)夕方 2
相手が泣きやむのを待って、僕はいったん体をはなすことにした。
今日は、よく女に泣かれる日だと思った。
自分の腕のなかで、女が泣いているというのは、なかなかに強烈な体験である。いくら感触が気持ちいいといっても、これではおかしな気分になりようがない。心配でいたたまれないし、このあとどう慰めてあげればいいかと、途方に暮れてしまう。
「あ、あの……。ごめんなしゃいです」
顔をあげて、堤さんはようやくそれだけを言った。いつにもまして、ほんとうにちいさな子供のようだと僕は思った。
「どうしたの? いったい」
「えっと、商店街を、歩いてたら、し、しらない、男の、ひとたちが」
心底おびえきっているという様子で、堤さんが体をふるわせている。彼女のあまりにも痛ましい姿に、僕は衝撃的な告白を覚悟して、思わず緊張してしまった。
しかし、くわしく話を聞いてみると、その内容は、とりたてて驚くべきものではなかった。
そもそも、堤さんは毎日の食事を、すべて自分で作っているそうである。趣味とかなんとかいうまえに、ご両親がいつも仕事でいそがしいため、自然とそういうことになっているらしい。食材のたぐいは、おもに平日、下校の途中で商店街のスーパーに寄り、そこで購入してから帰ることが多いとのことだった。
ところが、今日にかぎっては、買い忘れていたのか、作ろうと思っていた料理の材料が足りなかったのだという。
そこで、堤さんは調理をいったん中断し、買い物に出てきたわけだが、商店街は日曜ということで、ひとが多かった。とくに、若者である。彼女が道を歩いていると、三人か四人かの騒がしい男たちに呼びとめられた。そして、これからどこかへ遊びに行こうといわれた。
つまり、堤さんはナンパに遭遇してしまったわけだ。
彼女は男、とりわけ大声を出すようなタイプを、ひどく苦手としている。以前など、ゴーがすこし近くで騒がしく話しかけただけで、泣き出してしまったほどなのだ。案の定、堤さんは体がすくんでしまい、その場でうごけなくなってしまった。
男たちは、堤さんが黙っているのを見て、承諾と受けとったのか、あるいは馬鹿にされているとでも思ったのかもしれないが、いきなり彼女の手を引いて、どこかに連れていこうとしたらしい。
それが、限界だった。堤さんは恐怖でわけがわからなくなり、おそらくは相手をおしのけるようにして、走って逃げたのだろう。とにかく、彼女の記憶はそこで途切れており、つぎに覚えているのは、僕に抱きしめられて、頭を撫でられていたことだったのだそうだ。
「落ちついて、堤さん。わかったから。だいじょうぶだから。もうそいつらはいないからね」
「で、でも……。さっきのひとたち、こころを、追いかけて、きて、ない?」
要約すれば、数人の男たちにナンパされて怖くなり、走って逃げてきたというだけのことである。なのに、堤さんはかなり混乱しているようだった。話は前後し、だれがなにをしたのかも要領をえないし、しまいには、恐怖を思い出したのか、その場にうずくまって、ふたたび泣きはじめる始末で、なだめるのにかなり苦労してしまった。
こういうとき、どうしたらいいのだろう。困りはてた僕の脳裏に、ふと、あすかの泣き顔がうかんだ。
「だいじょうぶだからね。僕がついてるから」
「あ……」
正直なところ、男が苦手な彼女にこういうことをして、ほんとうにいいのか、僕にはわからない。ただ、堤さんは、さきほどおなじようにしたときに、すくなくとも嫌がってはいなかった。また、あすかも、感情が激したときにこうしてやると、かなり落ちつくのである。
だから、僕は堤さんを抱きしめることにした。しゃがみこんでいる彼女を、膝立ちになって、両腕でつつみこんでやった。そうして、ゆっくりと頭のうしろをなでながら、子供をあやすようにやさしく話しかけた。
効果は、あったのかもしれない。しばらくするうちに、堤さんは、いくぶん落ちついてきたように見えた。
「……そろそろ、離れていいかな?」
「ご、ごめんなしゃい、もうすこしこのまま」
まだ、彼女の体の震えはとまっていなかったようだ。
なぜ、堤さんは、こんなにも怯えているのだろうかと思った。たかが、ナンパされたぐらいではないか。手をつかまれたというが、現場の人通りの多さと、すぐに逃げてこられたことを考えれば、そこまで乱暴にされたわけでもあるまい。
もちろん、もとから男が苦手で、しかも相手が複数となれば、怖いと感じること自体は理解できる。しかし、ここまでというのは、いささか過剰というか、ちょっと異常なのではなかろうか。
変な言いかただが、これではほとんど、殺人鬼と出会って命からがら逃げてきたレベルの怯えようである。
もしかして、堤さんは今回以前に、ナンパがらみで、男からなにか恐ろしい目にあわされたことでもあるのかな。
そんなことを、ふと考えてしまい、僕は自分の想像に戦慄した。冗談じゃない。シャレにならないぞ、それ。
堤さんが、こちらの肩のあたりに顔を押しつけてきている。かなり強い力でしがみつかれており、痛みを感じるほどだった。なんとなく、僕は、はじめてあすかに抱きつかれたときのことを思いだしてしまった。
「ありがとう、ございます……」
ようやく、堤さんが腕の力をゆるめた。僕が立ちあがると、彼女もそれにならった。
立ったといっても、うつむいたままである。堤さんは、恥ずかしそうに目をふせていた。
「気にしなくていいよ。男の肩は、女が頭をあずけるためにあるのさ」
すこしでも、相手の気分をほぐしてあげようと、僕はおどけて、そんなことをいってみた。あまりのクサさに、言った端から顔が熱くなった。
やれやれ、僕はアホか。
いや、アホでいいのだ。堤さんが笑ってくれるのなら。
――残念ながら、堤さんは笑ってくれなかった。ただ、下腹のあたりで両手を組んで、もじもじとしている。さすがに、むこうも照れているのか、顔が真っ赤だった。
「おほん。で、買い物はどうなの? 堤さん」
見た感じ、堤さんは手ぶらである。いくら美人でも、スーパーの買い物袋をさげた女に声をかけるとは思えないから、ナンパされたのは買い物のまえなのだろう。とはいえ、彼女の場合、荷物を放りだして逃げてきたという姿が、容易に想像できてしまうのが、なんとも参ってしまうところではある。
「あきらめて、おうちに帰ろうかな……。今日は、べつのお料理をつくることにして」
「なんなら、僕がいっしょに行ってあげようか? 男がよこにいれば、ナンパしてくる人間もいないだろうし」
こちらの申し出が意外だったようで、堤さんは目をまるくした。
「え……ええ? でも」
「僕のほうなら、問題はないよ。用事もないし、ちょっとぶらぶらしたら、すぐに帰ろうかと思ってたぐらいだから」
うーんとつぶやき、堤さんが顎のところに左手の人差し指をあてた。考えごとをするときの癖なのだろう。彼女がこうするのを、なんどか見かけたことがある。
「そ、その……。それでは、おねがいします……」
やはり、彼女としても、買い物はつづけたかったらしい。ひどく申しわけなさそうな態度ではあったが、堤さんは承諾してくれた。
「じゃあ、はやいとこ行こうか。いそがないと、夜になっちゃうよ」
いって、僕はつとめてほがらかに笑って見せた。すると、それにつられてか、ようやく堤さんも硬い笑みを返してくれたのだった。