第六十六話 七月八日(日)夕方 1
ぶじ、徹子ちゃんを家まで送り届けてから、僕はもういちど商店街にもどることにした。
とくに、用事があったわけではなかった。単純に、まだ家に帰りたくない気分だったのである。ゴーの家は、目的地からそれほど近いわけでもないが、散歩の距離だと思えば悪くはなかった。
とりあえず、むこうについたらどうするかな。本屋でものぞいて、新刊のチェックとでもしゃれこもうか。
のんびりと歩きながら、あれこれと計画を練ったりしていた。その道中のことだった。
ふと、気がついて、僕は足をとめた。
「かれこれ、三ヶ月になるわけか」
ひとり、そうつぶやいて、僕はどこか、なつかしいような気分になった。
いま、僕が立っている場所は、あすかとはじめて出会った通りである。あの日、この道を歩いていると、いきなりうしろから声をかけられたのだ。
ところが、振りむいてもだれもおらず、どうしたのだろうと思って、あたりを見回していると、またしてもうしろから声をかけられた。
もういちど振り返ると、こんどはそこに、夏服を着た少女がたたずんでいた。
少女は自分を幽霊だといい、死後の世界の規則で、僕をしあわせにするためにやってきたと説明した。
通学路の途中なので、登下校でほぼ毎日とおりすぎる道ではある。だが、そういうときに、あすかのことを考えることは、あまりなかった気がする。ほとんどの場合、幸やゴーたち、あるいは委員長がいっしょだったからだ。
思い返してみると、この場所に僕がひとりで来たことは、めったになかったかもしれない。
さて、と。いつまでも、往来のまんなかで突っ立っていてもしかたないか。僕はふたたび、足をうごかすことにした。
もっとも、歩きながら考えるのは、やはりあすかのことだった。
彼女が亡くなったのは、七月の上旬から中旬にかけてのことであるらしい。何年まえのことかはわからないし、正確な日付もしらないが、とにかく、もうじき命日ということになるわけだ。
通りを見て、あすかのことを連想したのも、そのことが頭にあったからかもしれないと思った。
ここ最近、あすかと会う時間がどんどん早く、そして長くなってきている。うれしいと思う反面、どうやらそれは、僕にとってよくないことの兆候であるらしかった。
もしも、僕がこのまま女とつきあわないでいたら、あすかは成仏することができない。そして、いつまでもその状態でいると、脳が彼女の世界、すなわち、あの世にとりこまれてしまうというのだ。そうなったら、人間としての正常な生活は営めないといわれた。一生、精神病院に隔離されるとも。
それがほんとうなら、ひどく恐ろしい話ではある。しかし、僕はあまり心配してはいなかった。もっとはっきり言えば、あれはあすかの冗談、悪ふざけのたぐいではないかと思っている。
というのも、聞いた直後はあわてていて気がつかなかったが、あとでよく考えると、あのときのあすかの態度は、どこかわざとらしかったように思うのだ。それに、彼女は奉仕作業でこちらに来ているはずなのに、そのことが原因で僕が精神病院おくりになったら、本末転倒もはなはだしいではないか。
そこまで考えて、ふいに僕は口のなかが苦くなるような気分におそわれた。
なぜ、あすかは死ななければならなかったのだろう。
理由になりそうなことは、いくつか聞いている。たとえば、物心ついたころから、彼女の両親は不仲だったという。くわしい事情まではしらないが、とにかく口論とか、そういうものの絶えない家庭だったらしい。ほかにも、死の直前の時期には、進路や恋愛などで、悩ましいことが多かったそうだ。
死の状況は、自宅であるマンション上層階の部屋で、ベランダのへりに腰かけてぼんやりしていたら――いうまでもなく、あまりにも危険で異常な行動である――あやまって転落してしまったというものだ。あすかは、それを、事故だと言い張っていた。
当時の自分は、風邪をひいて朦朧としていた。そう補足はされたが、さすがに不自然すぎる話である。死後の世界の、よくわからないが受付とかいう存在も同様に感じたようで、あすかの死は事故ではなく自殺として処理された。
つまり、あすかの奉仕作業とは、死後の世界の規則で、自殺者にあたえられる懲罰なのである。
あんないい子が、なぜ、そんな悲しい目にあわなければならなかったのだろう。そう考えると、僕はたまらなくなる。切実に、彼女を助けてあげたいと思う。
そのためには、僕がだれか、女とつきあえばいいのだ。そうすれば、あすかは成仏することができて、もしかしたら生まれ変わり、あたらしい人生をあゆむことができるかもしれない。
――などと、とりとめなく思考の海につかりながらも、ぼんやりと進んでいくうちに、T字路にでた。ここを左にまがってまっすぐに行くと、商店街の入り口に出る。
そういえば、この時間だと、むこうの公園はどんな感じだろう。今日も、ひとっこひとりいないのかな。
ささいな疑問に気をとられ、よそ見をしつつ、道をまがりかけたときだった。
ふいに、かすかな物音が、僕の耳にはいってきた。
これは……足音? 人間の?
はてと思うまえに、すでに僕は全身に気合をこめていた。
気配があった。だれかが、角のむこうから、こちらに走りよってきている。そして、このままでいたらぶつかる。
頭がそれを理解するよりもはやく、ほんの一秒にも満たないあいだに、体が相手を受けとめる準備をしていたのだ。
またか。僕は内心で苦笑していた。あすかである。
どさっ。
衝撃とともに、女の子が僕の腕のなかに飛びこんできた。
「ひゃっ」
あすかが、ちいさく声をたてた。
どうやら、今回は不意打ちを防ぐことができたようである。僕だって、そうそういつもいつも、驚かされてばかりではないのだ。
おう、よしよし。愛いやつよのう。そのまま、僕はあすかをしっかりと抱きしめて、頭のうしろあたりを撫で回してやった……うん?
おや?
なにか、おかしいと思った。今日は、日曜である。あすかが来る日ではない。それに、みょうな違和感があった。
まず、温度である。体があたたかいのだ。
死者であるあすかは、体温が低い。最近は気温が高いのでそれほどでもないが、出会った当初の四月ごろなどは、さわっていると震えが来るほどだった。
なのに、この体はあたたかい。まるで、生きている人間のようなぬくもりを感じた。
そして、もうひとつ。身長がすこし、いや、かなり高くないだろうか。頭の位置から、てっきり抱き上げている状態かとも思ったが、どうも相手はすこし背伸びをしているだけのようなのだ。
高二と中三、しかも男子と女子ということで、僕とあすかにはかなりの体格差がある。抱きしめると、すっぽりとつつみこむような気分になるのだ。
しかし、この体はそうではなかった。どちらかというと厚みがあり、抱きごたえのようなものまである。
さらに、感触もちがっていた。あすかはスポーツでもしていたのか、いくぶん筋肉質なところがある。あるいは、脂肪が薄いといってもいいかもしれない。女子とはいえ、そこまで言うほどやわらかいわけではないのだ。
ほかに、僕が抱きしめたことがある女というと幸がいるが、そちらも、筋肉質ではないにせよ、あすかよりずっと痩せているので、やわらかいという感じは、あまりしない。
だが、この体はほどよく脂肪がついていて、いかにも女らしいというか、もっと強く、できれば激しく掻き抱いてみたいと思わせるやわらかさがあった。
ほんのりと、甘い匂いがする。香水かな、これは? それとも、汗……ないな。もっとべつな、体の匂いかもしれない。
ふうむ、なんだろう。花や果物のそれとは、すこし違う気がする。かすかに香っているだけのはずなのに、みょうに濃厚で、癖になりそうな匂いだった。
惰性のように相手の頭を撫で回しながら、僕はすこしだけ体を引いてみた。そうして目のまえの顔を確認すると……あれ、やっぱりあすか?
いや、よく見るとちがうな。このひとは、あすかじゃない。
このひとは、……堤さん?
なんだ、堤さんじゃないか。
はあ、なるほど。僕はさっきから、堤さんを抱きしめていたのか。
堤さんが、どこかあっけにとられたような表情で、こちらを見かえしてきている。視線が重なりあった。僕たちは抱きあい、見つめあっている。
……ええと。
ど、どうしよう。相手の頭をなでる手が、止められない。体を抱きしめる腕の強さを、ゆるめることができない。感触が気持ちよすぎて、離れたくないのだ。もっと、ずっとこうしていたい。
ああ……。いい匂いだ。このまま、ずっとこうして包まれていたい。
ち、ちがう。僕はアホか。おちつけ。冷静になれ。
よし、そうだ、いいことを思いついた。僕は、堤さんといきなりぶつかって、びっくりしたのだ。そのせいで、呆然とするあまり、体が固まってしまったのだ。そして、彼女に注意されて、ようやくわれに返るのだ。それまでは、こうして抱きしめていよう。
みっつ、そのままの状態で呼吸をかぞえた。彼女は、なにも言ってこない。
突然、堤さんが僕の体にしがみついてきた。心臓の鼓動が、倍の早さになった。
いったい、なにが起こっているのだ。堤さんが『あの、そろそろ離れてください』といい、僕が『あ、ごめん』と謝る。そんなありふれた漫画のようなやり取りで、場をおさめようと思っていたのに。
僕は、もっと、彼女を抱きしめていていいのだろうか。こうして、ずっと頭をなでていていいのだろうか。
背中になにか、ぞくぞくとしたものが走りぬけていく。思わず、僕は相手を抱きしめる腕の力を強くした。
鼻をすするような音が聞えてきた。
「あ、あの、……堤、さん?」
こちらにしがみついたまま、堤さんは泣きはじめていた。